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プロフィール

高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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石の鐘

草の戸随想 246号 8月号         高沢英子
   「石の鐘」

六月初め東京都美術館で、日本リアリズム写真集団主催の恒例の「視点展」が開かれた。この展覧会は、これまですでに四十六回を数え、今年度は、全国から自信作が三千点余寄せられたと聞いた。  
 力作揃いのなかから百五十数名の写真家の作品七百点余のモノクロとカラー写真が選ばれた。
そして今回、私の所属している民主文学会の仲間の平山謙さんの作品も入選したと聞いたので、写真はからきし駄目ながら、観ることは好きなので、娘を誘って見に行った。事前に月刊「民主文学」誌に、「視点展」の感想批評めいたものを書きたいと、申し出て受け入れられていたので、平山さんの写真ばかりでなく、多くの作家の作品を興味深く見せて貰った。
展示作品は、さすがに玄人はだしの腕前で、戦後の日本人の日常ありのままの姿を写し取り、都市や風景を様々な視点でとらえ、おのずから時代や歴史の貴重な証言となっていると感じた。それは世代を超えて、誰にとっても心に沁みるものだった。

平山謙さん入選の作品は「二度と許さない」というタイトルで、古いお寺の鐘楼に、鐘の代わりに吊るされた大石の写真をめぐる三枚だった。
そもそもこの石が鐘楼に吊るされたのは、昭和十七年(一九四二年)の秋というから、七十五年前ということになろう。
 定年後、本格的に勉強した、という平山さんの写真の腕前は相当なもので、日頃から、彼が四季折々の風景や花木、土地の祭りなどを、独特の繊細な眼で捉えて撮影した写真は、息を呑む美しさなので、わたしはいつも見せてもらうたびにつくづく感心し、名前の通りの謙虚な人なので、はにかみながら見せてくれる手製で大事にしている私家版の写真集を、無理にせがんで貰ったりしてきた。
しかし、今回の作品は、視点がこれまでと違って、被写体に強い訴えと願いがこめられた物語が秘められているのが大きな特徴だった。タイトルそのものも「二度と許さない」という気迫のこもったもので、「石の鐘」の持ち主の強い意志を表現している。
 この鐘の代わりの巨大な石を吊るした鐘楼は、現在長野県信濃町の農村地帯の一集落に、昔からあった菩提寺、浄土真宗本願寺派の「称名寺」に在るという。かなり有名なのでご存知の方もあるかもしれないが、三枚の写真のうちメインの一枚は、鐘楼の太いがっしりした木の四本柱を支えている台石のひとつに、ぽつんと腰を掛け、目の前にひろがる村の風景をじっと見ている白髪の老女の後姿を配したものだ。老女の目の前には、今の日本ではもうあまり見られなくなった刈り入れの済んだ田畑が広がり、野に人影はなく、ところどころに、ぽつんぽつんと民家が木の間隠れに見えるだけだ。遠くに田畑を取りまくように連なっている森の樹々がなだらかな丘へとせりあがり、右手はるか彼方に、こんもりと小さな里山がある。昔懐かしい典型的な村の佇まいだ。鐘楼の傍に二抱えはあろうかと思われる大木の幹がぬっと写っている。
鐘楼の下では後姿だった老女が、もう一枚では鐘楼を背に、どこか遠い一点を見つめているような表情が大きく写し取られている。そして、あとの一枚は、仏壇を前にして袈裟をかけ、数珠を握りしめている僧侶姿の先ほどと同じ女性を写したものである。
このひとは、石の鐘を守っているこの「称名寺」の女性住職佐々木五七子(いなこ)さんである。昭和四年、この寺の住職の娘としてこの村に生まれ育ち、親子三代にわたって、住職として寺を守ってきた人である。八十九歳とは思えぬ性根の坐った表情ながら、多年の悲しみと諦念も秘めているかのような静かな眼でもある。
なぜ普通の梵鐘でなく石の鐘なのか。この「石の鐘」が持っている物語をもっと詳しく知りたくなり、町の観光課に電話すると、お寺に直接お話しください、と電話番号を教えられた。
お寺に電話すると、直ぐに住職の佐々木五七子(いなこ)さんが直接出られた。挨拶のあと、単刀直入に
「あなたは幾つ?」と聞かれ、答えると、ほぼ同世代ということで、女同士の話が弾んだ。
貧しい村では、彼女の幼友達の少年たちが何人も、満蒙開拓義勇団という美名のもとに、無計画な侵略政策に加担させられ故郷をあとに海を渡り、二度と戻ってこなかった。戦時中の少女時代に、大事な寺のシンボル、鐘を軍に供出しなければならなかった日の無念な光景を、七〇年経った今も、忘れたことはないという。
「いい音でねえ。遠く飯田の町まで聞こえたのよ」と悔しさをにじませるいな子さんである。
「鉄類の供出」「満蒙開拓義勇団」ーわたしにも似たような思い出がある。当時上野のまちでも、家の前の小溝に渡した鉄の溝蓋、銅や金属の雨どいから、火鉢、鍋窯、鉄瓶などの日用品のたぐい、はては床の間の置物に至るまで、鉄製品のすべてが没収徴収され、大砲や鉄砲の原料にされた。
たまに鉄の溝蓋など残している家があると、子供たちさえ「非国民」呼ばわりして、わざとガンガン音たてて踏み鳴らしたりした信じられないような時代。我が家でも、中土間の銅(アカ)の雨どいから鉄瓶、火箸の類までそっくり供出し、さらに庭池の石の上に置いていた等身大の鉄製の鶴や鷺、今でいうオブジェも抱えて持ってゆかれた。町会(チョウエ)のまえの広場で、即座にカーンカーンと音立てて、細い脚や胴体が叩き割られていたのを見た悲しい思い出がある。
まだ西と東にわかれていなかったころの上野のマンモス小学校の朝は、広い運動場でみんな集まっての朝礼で始まった。五か条の御誓文の前で、校長先生の訓示を整列して聞いたのである。日中戦争がもう始まっていた。満蒙開拓義勇団に入り、勇躍出発する高等科の少年何人かの訣別の挨拶もここで行われた。
空襲が激しくなる中での、竹槍訓練とバケツリレー。今の人はこれを聞いただけで信じられないと笑うが、話しているこちらもアホらしさに唇を噛む。これが現実だった。五七子師の幼馴染だけではなく、大好きだった小学校の担任の優しい女の先生も、満州に渡ったひとたちは二度と戻ってこなかった。
話は尽きず「夏にはいらっしゃいよ。寺に泊めてあげるわよ」といな子さんは言った。
その後、澤田章子さんが、二〇一五年、京都のかもがわ出版が、児童文学者和田登の「石の鐘の物語ーいね子の伝言」を貸してくれたので、私はこの「石の鐘」にまつわる物語の全貌を知った。知れば知るほど、悲しい物語が詰まっている。どこにでもあった話、と片付けるわけにはゆかない。
二度と許せない、この石は下ろさない、と五七子師と往時を知る檀家の人たちの決意は固いが、石は黙して語らない。         
                    

わが街かわら版 ⑪号8月    高沢英子
  わたしの宝箱から 
   ⑪作家松田解子という奇跡
間もなく七十二年目の敗戦記念日が来る。長崎と広島二都市に原爆が落とされ、沖縄の島民を捲き込んだ無惨な死闘とその壊滅。多数の国民が生き地獄を体験した果てに、漸く迎えた国の終戦(実は敗戦)記念日。真の責任者は誰か。誰も本気で追及せず、できない不思議な国。  
かつてオランダの世界的ジャーナリスト、カレル・ウォルフレンが喝破したように、民主主義の育たぬ「シカタガナイ」が合言葉の日本でまた新たなひずみが噴き出し、為政者のやりたい放題は手が付けられない状態だ。
平成四年、百歳を目前に世を去ったプロレタリア作家松田解子は、昭和二十年五月、中野区江古田の空襲で家を焼かれ、すべてを失ったが、二〇一一年、戦争末期から敗戦の秋までの日記風メモが大切に残されていたのを遺族が見つけ、雑誌「民主文学」に掲載された。身重の身で家を失い、飢餓に苦しみつつ、精神の高さを保ち人間らしく生きんと志す文言が随所に記されている。敗戦直後の女児出産の状況描写も生々しい。
一九〇五年秋田の荒川銅鉱山に生まれ、過酷な生い立ちのなか文学に目覚める。中年期、真実に生きる道を模索、苦悶した時期も乗り越え、三児の母として、晩年は病弱だった夫を支え、家族への誠実心は失わなかった。
大作「地底の人々」「おりん口傳」他多くの名作を世に送り、筆力識見ともに一流だった彼女の辞書に「シカタガナイ」という言葉はない。戦後、松川事件では十九名の被告の無実を訴え被告人の文集「真実は壁を透して」(月曜書房)編集、作家宇野浩二、広津和郎らを動かし最終的に全員無罪をかち取る。安保問題、花岡鉱山の中国人労働者の遺骨収集など、その働きは国境を超え、常に働く者の側に立ち、人権を踏みにじり、民主主義の根幹を脅かす案件には先頭に立って後進を励まし、自ら果敢に戦った。作家でなく「足家」と自称。体制側の暴虐と欺瞞を許さぬ渾身の働きで弱者の立場を守ろうとする優しさと真心に溢れていた。  
日本人の身で、サルトルが提唱したアンガージュマン(知識人の社会及び政治参加)の精神を、まさに真摯に貫いた奇跡の女性だったと思う。
草の戸随想 七月245号              高沢英子

    「転ぶ老女」の話
六月に入って初めての土曜日。このところ蒸し暑い日が続いている。今度引っ越したマンションは,高齢者向けなので、玄関には沓脱用の椅子が取り付けられ、浴室やトイレの手すりも万全。床はバリアフリーで、キッチンはガスではなくてITコンロ、床暖房まで抜かりなく整っているのに、空調設備だけがついていない。
西行や鴨長明、吉田兼好の時代とまでいかなくても、近世江戸でも、日本人の暮らしはもっと簡素で気軽だったろう。それどころか戦後でも五十年代は、大学生など友人に助けられてリヤカーで引っ越していた。
しかし、今は特別贅沢をしないでも、ひとり暮らしを整えるのにもないかとお金がかかり、手続その他も煩瑣で、ドア一つ、点灯スイッチ一つにも手が込んだ仕掛けなどがあって、操作その他が万事むづかしくややこしい。ゴミ捨てのルールなど覚えなければならないこともわんさかあって年寄りにとっては、あっさり「快適です」というところまで到達して落ち着くまで、時間と手間とが矢鱈かかり疲れ果てた。
ボケ防止などと入居者同士おたがいに慰め合ったりしているけれども、却ってボケるのではないかと心配だ。
先夜も、うっかり、寝る前に電灯のスイッチを切る拍子に外廊下の非常ランプのスイッチも押してしまい、朝の四時に携帯電話と宅電話の両方で叩き起こされた。「どうかされましたか」「え、そちらこそどうしたんですか。こんな時間にさ」「夜遅く申し訳ありません。ご近所の方からランプが点灯しているというお知らせがあったのでお電話しました。御無事ですか」「無事ではありますがね。夜遅くじゃあなくてもう朝でしょ。四時ですよね。ランプをつけてからもう六時間以上たってますよ」と寝ぼけ眼でつっけんどんに応答したりして、あとで娘に「自分が悪いのに文句を言うなんて」と呆れられた。
ともあれ、この暑さは尋常でない。夏が来る前に何とかしなければと思って、近くの秋葉原の電気街に出かけた。隣のシルバーセンタから出ている無料の循環バスに乗ったのはいいが、JR秋葉原駅の出口で、いつもと違う方面に下ろされたので、迷ってしまった。
東京の繁華街は、近年ますます街並みが複雑になり、しかもいつ行っても人でごった返している。人口が増え続け、外国の観光客やビジネスの人も多いうえにもともと、あらゆる地方からあらゆる事情を抱えて集まっている都市だから、服装もメイクも男女を問わずじつに多様である。
かつて堀辰雄が
「東京で銀座などの街角に立っていると、小説のモデルになる人物が、数分で見つかる。他の地方ではこうはいかない」
と言ったというエピソードをたまに思い出すが、今はそれどころではない。
新宿や渋谷、池袋などになると、私鉄、地下鉄、JR 何本もの路線が輻輳し、からみあい、地下道などに迷い込むと延々と歩く羽目になる。長年東京に暮らしている人でもわけがわからないとぼやいている。
さて、秋葉原も電気街として近年ますます発展し、ビルがひしめき合って入り口も分からない。きょろきょろしているうちに、突然転倒してしまった。歩いていた敷地が同じ模様のタイル貼りで、ほんのわずかな段差にけつまづいてしまったのである。体重が三十数キロくらいしかないせいか、骨折はしなかったが、膝と顔面を強打し、メガネが壊れた。
以前軽い脳梗塞を患っているので、医師の処方による血流の薬を飲んでいるために思いがけず出血がひどかったらしく、何人かの人たちが駆け寄ってきて介抱してくださったうえ、救急車を呼んでくれたので、近くの順天堂病院に送られた。病院の救急医療の医師たちは優しかった。
「おひとり暮らしですか」
「ええ」
「東京にご親族はおられますか」
「いません」
と嘘をついたが、すぐばれて娘が迎えに来た。
レントゲンやMRI の部屋で検査を受けたのち、医師や看護師が顔を覗き込みながら
「ところでお顔にシミがありますが、これは以前からありましたか」と何度か聞く。
「はあもういい年ですから加齢シミは両方の目尻にありました」
「頬骨の薄いのが折れていますが、」と言いながら医師は指を立てて
「これは何本に見えますか」「一本です」
ゆっくり動かしながら
「これはどうですか」「一本です」といったやりとりのあと
「幸い目の筋肉には触っていないようです。」
「副鼻腔に血液がたまっていますが、それは時間がたてば吸収されるでしょうから問題ありません」
という診断で、唇を四針ほど縫ってもらい、膝に絆創膏を張ってもらって帰ってきて鏡を見て驚いた。片頬一面に大きくお岩さん風のあざが広がっていたからである。顔のことで訊かれ、加齢シミと答えたときに医師が不審そうに生返事をしていた理由がはじめて呑み込めた。
自立したつもりが、またまた娘に厄介をかけ、彼女は息子に電話で伝えたらしいが
「お兄ちゃんは『あの人は、もうちょっとはじっとしてられないんかなあ』と怒っていたよ」と言った。
それにしても経過は順調で、数日後抜糸もすみ、お岩さんも薄くなってきた。
たまたま娘の家に行き、コーヒーでも淹れようとキッチンの前でうろうろしていたら、「何をしたいの。言ってくれればあたしがやるからじっとしていたら」と娘が苛々する。孫がすかさず真面目くさって「しょうがないでしょう。おばあちゃんだって生き物なんだから、動くのは」
と言ったので、思わず噴き出してしまった。
娘はなんとなく憮然としている。(この子はこの年でこんな単純さはどうなんだろう。精神年齢低すぎじゃあないかしらん・・・)などとこそこそ深刻に悩んでいるのかもしれない。最近は、何事も昔のようにシンプルではなくなった、とまた思いながらコーヒーを飲んだ。
地元のかわら版に連載しているコラムの締め切りが迫っている。今回の予定は第二次大戦の初め、ロンドン郊外の自宅近くのウーズ川に身を沈め自死したイギリスの女性作家ヴァ―ジニア、ウルフについて書く予定だった。学生時代から注目して来た作家だが、紙面の都合上九〇〇字という制限は一般にあまり知られていない作家だけにきつかった。編集者は外国文学には明るい人だがプロだけにフオローしつつも、わかりやすく書くよう注文は厳しく互いに苦労している。
なんとか書き上げたあと、ふと、たまたま本箱にあったエッセー集を手に取り目次を見ていて「転ぶ老女」というタイトルに目が留まった。よく似た話かもしれないがどうまとめたのかと読み始めた。出だしはとくに変わった話でもなかったが読み進むうちに意外などんでん返しがあり、作り話にしてもよくできている。読まれた方もおられるかも知れない。著者は二年前に急死した女優十勝花子さんだった。
内容をかいつまんで紹介すると、ある日神宮球場前の人通りの多い場所で、たまたま目の前で転倒した老女を甲斐甲斐しく介抱して感謝された著者は、一週間後、同じ場所でまた同じ老女が転び、通行人に手厚く介抱されるのを目撃、追跡調査の結果、老女は毎週同じ場所で転んでは通行人に手厚く介抱してもらい、礼を云ってとぼとぼ去っていた、というエピソードである。都市の寂寥と言おうか、老いてこんなかたちでひとの心によりすがろうとする工夫は笑い事では済まされない切なさだ。田舎で一人住まいをする年寄りの寂しさとは全く別のかたちの都市の孤独といおうか。老いてこんなドラマを演じて、孤愁の心を慰めようとするとは。人間にかぎらず、命ある限り、何かを思い、なにか演じずにいられないかもしれないが、つくづく生きものとは切ないものだと思った。



日本リアリズム写真集団「視点」展を観て     高沢英子
   時を超え、壁を砕き、映像が語る真実の重み
六月六日から十三日まで東京都美術館で、リアリズム写真集団主催の恒例の公募写真展が開催された。今回で四十三回を数える歴史ある作品展で、今年は全国からの三千点に及ぶ応募のなかから選ばれた七百点の入選作品が展示された。
写真についてはまるで素人なのだが、研鑽を積まれた実力ある入選者たちが、奇をてらうのではなく真剣に現実と向き合い、感じるままを形に表すことに全力を注いで発信された無言の声に圧倒されながら、一枚一枚興味深く拝見した。
リアリズム写真集団は、応募作品を選ぶにあたって、作家が被写体に向かう時の志も考慮に入れる一貫した姿勢を持っておられるとみえ、入選作品も、観る人の魂に訴えかけ、印象を灼きつける映像のちからと気迫が感じられ実に多彩だ。近年の災害の傷跡を生々しく伝える映像、時を超え人間が生きていく姿のひとつひとつが、心に沁みた。
特選の小形佳昭氏の津軽海峡冬景色や、黒川千穂氏の津軽早春の美しさには息を呑んだ。猪狩英司氏の福島七年に籠められた静かな諦念、大石千恵子氏も、伊藤廣氏、清水和雄氏も、それぞれカメラの持つ可能性を大きく生かした画像構成がユニークだった。奨励賞の宮本壽男氏「長い付き合い」には、身につまされ、野呂彰氏「終の棲家」では、生きて来た山坂を問いたくなる切なさがある。本郷浩氏「望郷」渡辺章弘氏「失われた時間」の、感傷すら許されない厳しい現実。佐々木雄こう( )氏の「物売りの少女たち」の眼、近藤恵美氏の「祈りのガンジス」の異の世界、いずれも衝撃的だった。
ひるがえって優秀賞の西村隆男氏の「帰り道」。老婆の顔がなんとも言えず、雪のなかを辿る二人に空高く雲間から射す太陽、まさに一幅の絵だ。夏目安男「川のまち江東」では、都心の雑踏とは別の東京の顔をみる思いである。中西勝男氏の「さんぽみち」―荒川土手は、昆虫や土筆ん坊と、遠いマンション群やジョギングの人々が明るい色彩のコントラストと遠近の効果など巧みに構成され、大地の生きものたちとともに生きる現代の平和と自由を、しみじみ味あわせてくれる。
さらに応募者が抱く不条理に対する怒りや悲しみに対する取り締まりの警察官の視線を被写体として切り取った谷口亙氏の「辺野古で今」に、思いがけない斬新さがあった。彼らも同じ人間としての立場と、ドラマを抱えている点に着目した映像で、大きくとりあげたのは、社会性を重視するリアリズム集団の姿勢ならでは、と思った。
黒白写真が語る過去の無惨な名残の前で、私の足は度々止まった。橋本義昭氏のカラー写真「足尾2017」の映像と長谷川雅一氏の黒白写真の静の世界「足尾・在りし日」の茫々とした風景は、忘れ去らの暗黒の遠い記憶を、今ひとたび呼び覚ました。
そして功力俊文氏の作品「闇は今も続いているー下山事件から69年❘」という題名の5枚の写真、京都の女子専門学校の宿舎舎で、私と同室になったのは亡き下山総裁の姪だった。私の娘は事件に関心が強い。洗足池あたりを通る度に「下山さんはこの道を通って行かれたのよ」と呟いて私の注意を促す「ひどい事件!政治的意図と卑劣な裏切りの匂いがしている」と。今JR常磐線を列車は何事もなかったように走り、黒い有刺鉄線が不気味に絡む。選ばれてよかった。過去は消えない。
宮原恵子氏の「重慶十八梯の今」重慶と聞くと私たち戦前派はぎくりとする。重慶と蒋介石は日本国民が叩きのめさねばならぬ悪の権化と教えられたが実は古い生活の歴史と暮しがあった。繰り返された爆撃。悪は日本の側ではなかったか。今という語は様々に読み解くことができる。
老いや病いの不安をかかえ、支え合う姿をとらえた写真のかずかずに、生活の情感をなぞる視線の暖かみがみなぎっている。そして社会現象に着目した視点によるものばかりではなく、日本の風土が醸す一瞬の美しさをとらえ、見事に写し取った作品には、思わずほっこりさせられた。日本の風土の四季折々の山野が見せる賑わいや、旅情をそそるはなやぎと、侘びや寂びといった詩的な情緒を、見事にとらえた作品も少なくない。今後も、こうした写真がもっと生み出せる地球であって欲しい。
大田民主文学を読む会のメンバーで、文学作品についても的確で鋭い発言をされる平山 謙さんは、風景写真でも、美しさを見事に表現され魅了されてきた。今回選ばれた被写体は、長野県信濃町、戦前の古間村の小さな集落にある浄土真宗称名寺の「石の鐘」だ。黒白の画像で、鐘楼には鐘ならぬ縄でしっかりゆわえた大きな石がぶら下がっている。鐘楼の下の石に腰を掛け、茫々と広がる田畑や遠くの里山や森の樹々を見詰めている老女は、寺の住職佐々木五七子さん(八十九歳)で、鐘は昭和十七年接収され、武器にするため潰された。寺では代わりに巨大な石を吊るし、今もそのまま吊るしてあるという。「いい音でね。四方に響き渡ったものなの」と彼女はしみじみ回顧する。集落では、満蒙開拓に夢を抱いて家族で移住し、結局、あるじは戦に駆り出され度と帰ってこなかった。怒りを込め、石は今もそのまま吊るしてある。戦争は嫌だ。二度と許さない、と固く心に決めている。写真は、言葉だけでは実感できない無言の意志の力をも示す。 
作品すべての感想を述べることはできず、心残りだが、写真が物語を語りかける力と奥行きの豊かさにあらためて感動した。 



わが街かわら版                 高沢英子
  ⑩ヴァ―ジニア・ウルフの挑戦^
 東京都美術館が、モスクワのプーシキン美術館所蔵の十七世紀から二十世紀のフランスの風景画展を開催していると娘に誘われ見に行った。
すぐれた芸術作品は時代の変化をいちはやく感じとる。いつの時代も、才能ある人たちは革新的だった。
ヨーロッパでは十九世紀後半から哲学や社会学心理学などに新たな人間性への洞察が生まれ、知的分野の視界の広がりとともに芸術界でも新しい動きが起こり、絵画では後期印象派と呼ばれる画家たちの空間と時間による自然の光の変化を捉えた描写がひとびとを魅了し、描かれる対象は普通の生活を営む人々や日常そこにあるものとなり、貴族社会の独占物でも宗教に基づく物語世界でもなく、生活に視点を置いたテーマがもてはやされるようになる。
文学の世界でも新しい動きがあった。紅茶に浸したマドレーヌが舌に呼び覚ました感覚を辿り、大作「失われた時を求めて」を書いたプルースト、ダブリンの中年男を主人公に、四十八時間の行動と意識を描いたジョイスの「ユリシーズ」などの作品が世に出る。
イギリスの女性作家ヴァ―ジニア・ウルフはこの技法を学び、登場人物が、刻々と移り行く身の回りの情景を追いながら、心の眼に浮かび上がる過去や未来の喜びと苦悩に絡みとられる意識の流れを、透徹した感知力と、リズムに富んだ筆力で鮮やかに描き出し、独自の境地を拓いた。
また彼女は、歴史的に偏ったイギリスの男性中心の社会差別に不満を抱き、女性が自分自身の文學形式を真に創造する為には何が必要かを論じた名エッセー「わたしだけの部屋」で、論文のかたちでなく、架空の女性主人公が、女人を拒否する大学構内をさまよいつつ思いにふける、という筋立てで男性の空威張りや規則にこだわる滑稽な姿を皮肉たっぷりに描き、女性が書く力を持つ為には十九世紀後半十九世紀後半自分だけの部屋と年20ポンドの金が必要不可欠と結論づけた。
不幸にして精神の病に苦しめられ、第二次大戦の始まった一九四一年、五十九歳で、終生良き理解者だった夫レナードに「これ以上あなたの人生を台無しにできない」と書き遺し、住まい近くのウーズ川に入水自死を遂げた。





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