わが街かわら版 九月 高沢英子
⑫ アリス・マンロー 「小説のように」㈡
ヨーロッパで意識の深層を深く掘り下げた文学が生まれたあと、アメリカやカナダの広大な新大陸に多くの民族がひしめく多様な社会を、感傷を削ぎ落とした文体でくっきり描き出した女性作家が現われた。一九三一年カナダ生まれのアリス・マンローである。生涯短編小説だけをこつこつ書き続け、二〇一三年ノーベル文學賞を受賞した。
二度の結婚で二人の娘を育てつつ執筆、わが国ではあまり知られていないが、近年翻訳家の小竹由美子氏によって次々訳出され、新潮社から数冊出版された。カナダのチェホフという声もあるとか。
アイルランド移民だった先祖のルーツを辿る作品から、一九六〇年代後半のヒッピーたちの生き様など、その小説世界は多彩である。
言葉は、まず使い手に操られ、受け取る側の心の中でこね回される。会話は常にすっきり進むわけではなく「話せばわかる」というのは、閉鎖社会の独断的な誠意と信念に基づく幻想に過ぎない。多様な世界に生きる人間が、他者の意見を必ずまともに受け入れるとは考えられないのが現実である。作品はそれを実に鮮やかに浮かび上がらせる。心の深淵が、絡み合い錯綜する会話ばかりでなく、ときに正体不明の沈黙も浮遊、思いがけない裂け目や破局に導かれる。深くじんわり心にこたえる結末。「こういう人生もあるわけよ」。という作者の声だけが残る。
登場人物の行動は多元的で、時間や空間を超え、多くの情景が交錯し、読者はあたかもシンフォニーのように響き合う小説世界に入り込む。やがてほんわりと幕が引かれる。人物の風采や外見をさりげない筆致で執拗に細かく書き込むことも忘れない。作品のひとつに「小説のように」というタイトルをつけているが、それこそ彼女の描く世界そのものかもしれない。三十頁で他の作家の一冊分以上のことを書くと言われるのも頷ける。
引退を表明しつつも二〇〇九年ソーニャ・コワレフスカヤの死の数日前の日々を描いた「あまりに幸せ」を発表。因みに世界最初の大学教授と言われたこの薄命の女性数学者は、かつて野上弥生子の憧れの女性のひとりであり、伝記の翻訳もしている、というのも興味深い。
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