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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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石の鐘

草の戸随想 246号 8月号         高沢英子
   「石の鐘」

六月初め東京都美術館で、日本リアリズム写真集団主催の恒例の「視点展」が開かれた。この展覧会は、これまですでに四十六回を数え、今年度は、全国から自信作が三千点余寄せられたと聞いた。  
 力作揃いのなかから百五十数名の写真家の作品七百点余のモノクロとカラー写真が選ばれた。
そして今回、私の所属している民主文学会の仲間の平山謙さんの作品も入選したと聞いたので、写真はからきし駄目ながら、観ることは好きなので、娘を誘って見に行った。事前に月刊「民主文学」誌に、「視点展」の感想批評めいたものを書きたいと、申し出て受け入れられていたので、平山さんの写真ばかりでなく、多くの作家の作品を興味深く見せて貰った。
展示作品は、さすがに玄人はだしの腕前で、戦後の日本人の日常ありのままの姿を写し取り、都市や風景を様々な視点でとらえ、おのずから時代や歴史の貴重な証言となっていると感じた。それは世代を超えて、誰にとっても心に沁みるものだった。

平山謙さん入選の作品は「二度と許さない」というタイトルで、古いお寺の鐘楼に、鐘の代わりに吊るされた大石の写真をめぐる三枚だった。
そもそもこの石が鐘楼に吊るされたのは、昭和十七年(一九四二年)の秋というから、七十五年前ということになろう。
 定年後、本格的に勉強した、という平山さんの写真の腕前は相当なもので、日頃から、彼が四季折々の風景や花木、土地の祭りなどを、独特の繊細な眼で捉えて撮影した写真は、息を呑む美しさなので、わたしはいつも見せてもらうたびにつくづく感心し、名前の通りの謙虚な人なので、はにかみながら見せてくれる手製で大事にしている私家版の写真集を、無理にせがんで貰ったりしてきた。
しかし、今回の作品は、視点がこれまでと違って、被写体に強い訴えと願いがこめられた物語が秘められているのが大きな特徴だった。タイトルそのものも「二度と許さない」という気迫のこもったもので、「石の鐘」の持ち主の強い意志を表現している。
 この鐘の代わりの巨大な石を吊るした鐘楼は、現在長野県信濃町の農村地帯の一集落に、昔からあった菩提寺、浄土真宗本願寺派の「称名寺」に在るという。かなり有名なのでご存知の方もあるかもしれないが、三枚の写真のうちメインの一枚は、鐘楼の太いがっしりした木の四本柱を支えている台石のひとつに、ぽつんと腰を掛け、目の前にひろがる村の風景をじっと見ている白髪の老女の後姿を配したものだ。老女の目の前には、今の日本ではもうあまり見られなくなった刈り入れの済んだ田畑が広がり、野に人影はなく、ところどころに、ぽつんぽつんと民家が木の間隠れに見えるだけだ。遠くに田畑を取りまくように連なっている森の樹々がなだらかな丘へとせりあがり、右手はるか彼方に、こんもりと小さな里山がある。昔懐かしい典型的な村の佇まいだ。鐘楼の傍に二抱えはあろうかと思われる大木の幹がぬっと写っている。
鐘楼の下では後姿だった老女が、もう一枚では鐘楼を背に、どこか遠い一点を見つめているような表情が大きく写し取られている。そして、あとの一枚は、仏壇を前にして袈裟をかけ、数珠を握りしめている僧侶姿の先ほどと同じ女性を写したものである。
このひとは、石の鐘を守っているこの「称名寺」の女性住職佐々木五七子(いなこ)さんである。昭和四年、この寺の住職の娘としてこの村に生まれ育ち、親子三代にわたって、住職として寺を守ってきた人である。八十九歳とは思えぬ性根の坐った表情ながら、多年の悲しみと諦念も秘めているかのような静かな眼でもある。
なぜ普通の梵鐘でなく石の鐘なのか。この「石の鐘」が持っている物語をもっと詳しく知りたくなり、町の観光課に電話すると、お寺に直接お話しください、と電話番号を教えられた。
お寺に電話すると、直ぐに住職の佐々木五七子(いなこ)さんが直接出られた。挨拶のあと、単刀直入に
「あなたは幾つ?」と聞かれ、答えると、ほぼ同世代ということで、女同士の話が弾んだ。
貧しい村では、彼女の幼友達の少年たちが何人も、満蒙開拓義勇団という美名のもとに、無計画な侵略政策に加担させられ故郷をあとに海を渡り、二度と戻ってこなかった。戦時中の少女時代に、大事な寺のシンボル、鐘を軍に供出しなければならなかった日の無念な光景を、七〇年経った今も、忘れたことはないという。
「いい音でねえ。遠く飯田の町まで聞こえたのよ」と悔しさをにじませるいな子さんである。
「鉄類の供出」「満蒙開拓義勇団」ーわたしにも似たような思い出がある。当時上野のまちでも、家の前の小溝に渡した鉄の溝蓋、銅や金属の雨どいから、火鉢、鍋窯、鉄瓶などの日用品のたぐい、はては床の間の置物に至るまで、鉄製品のすべてが没収徴収され、大砲や鉄砲の原料にされた。
たまに鉄の溝蓋など残している家があると、子供たちさえ「非国民」呼ばわりして、わざとガンガン音たてて踏み鳴らしたりした信じられないような時代。我が家でも、中土間の銅(アカ)の雨どいから鉄瓶、火箸の類までそっくり供出し、さらに庭池の石の上に置いていた等身大の鉄製の鶴や鷺、今でいうオブジェも抱えて持ってゆかれた。町会(チョウエ)のまえの広場で、即座にカーンカーンと音立てて、細い脚や胴体が叩き割られていたのを見た悲しい思い出がある。
まだ西と東にわかれていなかったころの上野のマンモス小学校の朝は、広い運動場でみんな集まっての朝礼で始まった。五か条の御誓文の前で、校長先生の訓示を整列して聞いたのである。日中戦争がもう始まっていた。満蒙開拓義勇団に入り、勇躍出発する高等科の少年何人かの訣別の挨拶もここで行われた。
空襲が激しくなる中での、竹槍訓練とバケツリレー。今の人はこれを聞いただけで信じられないと笑うが、話しているこちらもアホらしさに唇を噛む。これが現実だった。五七子師の幼馴染だけではなく、大好きだった小学校の担任の優しい女の先生も、満州に渡ったひとたちは二度と戻ってこなかった。
話は尽きず「夏にはいらっしゃいよ。寺に泊めてあげるわよ」といな子さんは言った。
その後、澤田章子さんが、二〇一五年、京都のかもがわ出版が、児童文学者和田登の「石の鐘の物語ーいね子の伝言」を貸してくれたので、私はこの「石の鐘」にまつわる物語の全貌を知った。知れば知るほど、悲しい物語が詰まっている。どこにでもあった話、と片付けるわけにはゆかない。
二度と許せない、この石は下ろさない、と五七子師と往時を知る檀家の人たちの決意は固いが、石は黙して語らない。         
                    

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