わが街かわら版
⑨迷路 野上弥生子
日本の年号がまた変わる時期がきた。明治・大正・昭和と生きた人々が、身辺からひとりまたひとり、世を去っている。歴史は繰り返すとはよく言われる言葉だが、公的に記録された事象だけが真実を語るのではないことを、身をもって知った人々が殆ど声をあげることなく消えて行くのはやりきれない。身辺にうそ寒い風が吹きはじめ、世界が不気味に揺れ動く気配を見せている昨近、尚のこと不安と危惧が募る。
一九一九年(昭和六十年)百歳を目前に他界した野上弥生子の晩年の大作「迷路」は、もっと読まれていい作品と思う。これほど確かに時代を見据えた作品を書いた女性作家は、日本ではほとんど無いに等しい。最初一九三六年(昭和十一年)秋「黒い行列」という表題で中央公論に連載として書き始められ、翌年十一月「迷路」と改題。時代の波に翻弄されつつ懸命に真実に生きようと試みる知識層の男女を描いた魅力ある恋愛小説、とも読める作品だったが、作者はそれきり筆を折った。同年十二月、ヨーロッパの反ファシズム、反帝国主義の人民戦線運動に触発されて動いた日本の活動家の弾圧が始まり、加藤勘十、山川均、荒畑寒村をはじめ拘束された人物一千人に及んだ時代が執筆を許さなかったのだ。けれども彼女は戦後再び筆を取り、無謀な戦争で国民の多くが悲劇的人生へと突き進む時代に、苦悩する若者を主人公にし、岩波文庫で通算約一二〇〇頁に及ぶ大作「迷路」を一九五六年に完結させた。九州の裕福な醸造家に生まれ東京帝国大学に進学し、学生運動で中退せざるをえなかった菅野省三を主人公に、身辺の多彩な人物像をありありと描く。最初の舞台は東京の特権階級で、弥生子の選良意識が垣間見られるが、それはそれとして、それぞれ、人間として信じる道を誠実に懸命に生きようとする姿を、深い洞察と観察に裏付けされた筆力で迫る。日中戦争に駆り出された主人公が捕虜としてとらえられた抗日ゲリラを斬首刑から救い出そうと軍から脱走を図り無残な最期を遂げる結末だが、明治大正の東京を克明に描いた歴史風俗小説として読んでも、ずしりと手ごたえある小説である。
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