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プロフィール

高沢英子

Author:高沢英子
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 伊賀上野出身
 京都大学文学部フランス文学科卒業

 メイの会(本を読む会)代表。
 元「VIKING]「白描」詩誌「鳥」同人

著書:「アムゼルの啼く街」(1985年 芸立出版) 
「京の路地を歩く」 (2009年 未知谷)
   「審判の森」    (2015年 未知谷)     

共著: 韓日会話教本「金氏一家の日本旅行」(2007年韓国学士院)
 現在メールマガジン「オルタ」にエッセーなど寄稿。

 

東京都 千代田区在住


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草の戸随想240号2月
明治大正昭和という時代        高沢英子
年が明けてからきびしい寒さがつづき、世界中が異常気象にのみこまれて混乱しているらしい。マンションの垣根の寒椿もちらほら花をつけ始めたが、気のせいか、例年のように溌剌としていないようすでぐったりしている。
平成はまもなく終わるが、このさきどうなるか、人類は、今よりもっと細心に生きてゆかねばならないかもしれない。
昨年秋 夏目漱石の直系の孫の夏目房之介氏の講演と、後半、房之介と、かれと懇意な漫画編集者、筧 悟氏との対談を聴いた。
以前テレビで一度見かけた房之介氏はすでに初老で、飾り気のない親しみやすい風貌と、率直な語り口は、生前多くの個性豊かな弟子や友人に恵まれて愛された祖父の人柄を、やはりどことなく受け継いでいる感じだった。
始まって間もなく、会場のパネルに漱石の大きな肖像が掲げられた。漱石のプロフイールはそう多く残っていないので、これも私たちがよく親しんでいる写真である。
房之介氏は「漱石が五十一歳で世を去ったとき、長男の純一は九歳だった。ぼくは純一の息子なので、祖父には会っていない、だからほんとにこんな顔だったかどうかわからない」と憮然とした感じで言われながら、いろいろぼつぼつ話された。
漱石が何であろうと自慢話なんかするつもりはない、という感じが、祖父の性格に似ているのでは?と私はおかしかった。おおらかな性格であった漱石夫人、つまり祖母のことは覚えていられるそうだった。
房之介氏は祖父のように文筆ではなく、絵筆で世の中の諸相を表現することを志された。選んだジャンルは漫画である。ただし漫画といっても、いわゆる諷刺漫画で、かつてはその道の第一人者であった岡本一平の画風に感化されたという。岡本一平は、岡本かの子のつれあいであり、岡本太郎の父だ。
岡本一平の諷刺漫画は大正のはじめから戦前の昭和にかけて、朝日新聞紙面でも大評判で一世を風靡したが、実は岡本一平の才能を見いだして朝日に推薦したのは漱石だったといわれていて、房之介氏とは因縁が深いのもうなづける。
わたしは子供のころ、父の書棚で二冊の対になった岡本一平の漫画集を見つけ、本が自由に手にはいらない時代、この二冊をくりかえし愛読したおぼえがあった。
それは明治大正期に世間にうけた文学作品を題材にした「現代名作漫画」と、当時の世相をヒトコマ漫画にした「現代世相漫画」の二冊だった。私はそれで明治三〇年代大評判となり、今も熱海には彫像まである尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一お宮のいきさつを知り、ダイヤモンドがそんなに人の心を変え、男女の運命まで変えてしまうのかとおどろき,同じ時期、巷の紅涙を絞らせた徳富蘆花作「不如帰(ほととぎす)」の川島武男海軍少尉とその愛妻浪子との悲しい夫婦愛物語や、浪子の墓の前で涙している武男の絵をみて、世にはこういう夫婦もあるのか、と子供心になんとなく納得し、菊池寛作の短編「恩讐の彼方」では恐ろしい罪をかさねてきた男が仏門にはいり、贖罪と世のひとびとのために役立つ志を抱いて、耶馬渓の川べりを通るとき人馬がくさり綱を命綱にして行き来し、命を落とす者すらいるという難所にトンネルを通そうと、たった一人鑿をふるって「洞門」の完成に心血をそそぎ、ついに仇をすら感服させ、協力して三〇〇メートル余のトンネルを掘り終える偉業をなしとげたという話に、つくづく感動し、谷崎潤一郎作の「痴人の愛」では,ナオミという女にぞっこんの主人公に、世にはおかしなひともいるものだ、とあきれたりした。(※註「恩讐の彼方」はフィクションだがこの「青の洞門」は、悪業を重ねた主人公とは別人の実在の高僧禅海和尚の手彫りのトンネルとして今も大分県中津市に残されている)
「現代世相漫画」のほうは、昭和初期、世界的大恐慌の余波で不況だった世相を反映してか、大学の卒業証書を丸めて「こんなものが何の役に立つ」と地面に叩きつけている若い男の姿や、毛皮の襟巻をし、ハイヒールを履いてしゃなりしゃなりと歩いてくるモガ(モダンガール)の膝に「あんねェ。今川焼買ってきてくれたかえ」と縋りつくぼろ着の幼い妹、という構図の絵に「どぶ板踏んでご帰還」という文が添えられているのや、ピアノを弾いている束髪の令夫人か令嬢風の女性の絵の横に「このピアノ、実は自動電気演奏ピアノ」と書かれ、便利なものもあるんだなあ、と感心しながらおかしく、随分愛読したのをなつかしく思い出し、房之介氏が、とつとつと語られる回想談に聴き入った。
ちなみに、岡本一平氏はわたしの郷里伊賀上野にも来られたことがある。確か町のお茶屋で一席設けたとき、同席したわたしの父は、肖像などを色紙に描いてもらい、大事にしていたのを見せてもらったおぼえがある。
さらに岡本一平氏の父上は、津の藤堂藩の儒学者岡本安五郎の次男で、維新後、仕事を失った多くの士族の運命さながら、生活は苦しく、生涯書家というより、看板書きで生計を立てたという岡本可亭なる人物の息子とか。やはり同じ藤堂藩の傘下にあった伊賀にとっても無縁のひとではない。
ところで、現代の日本では、新聞などに政治を諷刺した漫画は挿絵として掲載されるが、世相漫画や、評判になった文学作品の漫画集は一般受けはしていないようだ。我が家のちの好んで読んでいる漫画は、子供向けのもの以外は、ほとんどアニメのSFめいた話が主流のような気がする。房之介氏は、漫画学というジャンルを開拓、ストーリよりもコマと描線に視点を置いて表現技法を分析する、という独自のやりかたで「マンガ表現論」などの著書も出される祖父流の理論派である
漱石の作品の中では「硝子戸の中」がいちばん好きで「夢十夜」もいいと思う、といわれ「虞美人草」は失敗作だと思うが「夢十夜」は漱石が前年書き上げた「文学論」の主張をもとに作品化し、かれの一つのターニングポイントとなったと思う、と。
わたしは大学を病で休学していたあの頃、実家の祖父の本棚にあった漱石全集をほぼ読みつくし「文学論」に感銘して一冊のノートブックに全文筆写したこともあった。なにが書いてあったのか、今となっては思い出せもしないほろ苦い思い出ではあるが、後年、予備校で留学生に日本語を教えていた時、韓国の留学生たちのクラスで漱石の初期の小説をテキストとしてとりあげたこともあった。今思えば乱暴な話だが、かれらはよく理解し、そのなかからすぐれた漱石研究者も出て、現在韓国の大学で日本文学の教授となり、数多くの論文なども発表しているも書いている教え子もいる。
さて夏目房之介氏にとっては、祖父漱石は近くて遠い存在であり、四人の姉たちのあとで生まれた父上純一氏は、漱石については、ただ「怖かった」としか話さなかった、といい、生涯バイオリンを弾き、テニスのコーチをし、それ以外の仕事らしいことはせずに、九十歳まで生き、父親に可愛がられて育った中の二人の姉たちに、よく「お父さんの悪口言わないで」と怒られたりしていたという。昭和五十九年、漱石は千円札の肖像画に選ばれたが、その時も純一氏は突然役所から「お札掲載やります」という一法的な通告を受け、激怒し、ますます生来の役人嫌いが昂じたそうである。
房之介氏自身も人に「漱石のことを話せ」とか「書け」と言われるのが嫌で頭に来ていたが、一九九九年、はじめてロンドンに祖父の下宿をたずね、部屋も見せて貰ったときは衝撃を受け、なぜか思わず涙ぐんでしまった、とのこと。
漱石は中国の作家魯迅を高く評価していたそうで、房之介氏は「二人は、自国の近代化を何とかしなければという共通のポジションをもっていたと思う」と言われ、私も同感した。ただ漱石は魯迅のようには動かなかった、そして、その違いは日本と中国の国情や二人の処世観や性状の違いからであろうか、と考え込むように話され、わたしも少し考えてしまった。
そして昨年、房之介氏は中国で魯迅の孫に会いに行かれた。雑誌「すばる」にそのときの対談が掲載されているという。聴いているうちに、中肉中背で万事ざっくばらんに淡々と話される房之介氏が、漱石にだんだん重なって見えてきた。血というのは不思議なものである。そのうち「夢十夜」や「硝子戸の中」をあらためて読み返し、房之介氏の書かれた漫画も読んで見たいと思っている。          
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