私の宝箱から⑶ 高沢英子
光ある身こそ苦しき思いなれ
京都に居た時、鴨川のほとりで生涯を終えた頼山陽の旧跡を時折訪ね、山陽の才能ある弟子として、親交の深かった加賀の女性詩人江馬細香の存在を知った。
日本では、平安時代の女性文学作品があまた残されているにもかかわらず、南北朝以後江戸が終焉する明治初期、樋口一葉が出て来るまで、女性が何かを書いたという記録は、せいぜい加賀の千代女の俳句くらいで、文学史上殆ど登場しない。私はかねて江戸時代は日本人の識字率が世界でも突出して高く、儒者や漢詩人が多くの著書を出版し、和歌、俳諧、川柳、読み本、戯作本も数知れず、芝居小屋の繁盛した文化全盛期だったのに、ものを書く女性が世に存在しなかったとはおかしい、と思っていた。
だが実は、江戸期にものを書いた女性は確かに多く存在していた。寡聞にしてその事実を知らなかった私の眼を啓いてくれたのは一九九八年出版の門 玲子著「江戸女流文学の発見」(藤原書店)だった。登場する女性文人は細香はじめ五十数名、三百数十ぺージに及ぶ労作で、副題として文人の一人、只野真葛の和歌「光ある身こそ苦しき思いなれ世にあらわれん時を待間は」の上の句を添えていたのが目を惹いた。著者も江戸期の女性文学者達の強烈な自負心にしばしば圧倒されたといい、それが彼女たちの文学を支えたのであろうと書いている。
只野真葛(工藤綾子)は宝暦三年(一七五三年)仙台藩江戸詰医師工藤平助の娘として日本橋に生まれ、裕福な教養ある家庭で充ち足りた少女時代を送り御殿勤めなど体験した後、三十五歳で仙台藩士只野伊賀に嫁いで仙台に移り住む。夫は千二百石取りの上級武士。柔軟な知性をもち、真葛のよき理解者で妻に書くことを勧めたので、日記や紀行文、思い出の記などを書くが夫は彼女が四十九歳の時、江戸で急逝する。実家の家運も傾き孤独となった真葛は、それ迄考え抜いた人生万般におよぶ独自の思想を世に問おうと思いたち、「独考」と題した原稿を滝沢馬琴に送り講評を乞うが、儒教的教養の深い馬琴は彼女の才能は認めつつも、余りに自由な発想に「まことのみちをしらざりける」と強く批判。ついに世に出るに至らなかった。
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