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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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新年おめでとうございます。長らく停滞気味で失礼しました。今年からわたしが毎月投稿している随想もこちらに転記してみようとおもいます。また折に触れての読書感想、その他も書いてゆこうと思います。またお暇な折お読みください。今回は俳誌「芭蕉伊賀」しに今年掲載したものです
草の戸随想      高沢英子
  
  「戦場にかける橋」
地球上で様々なことが起こった二〇一六年も、太陽暦に従えば幕を閉じ、東洋古来の暦によれば丁(ひのと)酉(とり)の幕開けとなった。干支の起源は古く甲骨文の時代からあったといわれ、解釈には後世のこじつけも多いらしいけれども、それなりに古人の知恵の結集として無視できないところもあると思う。一説では、丁は古来から火の象とされ、酉は金の意味を持つとしてこの組み合わせは火剋金となり、世にいう相剋の語源ともなり、天地の平衡が失われる悪いしるしらしい。
とはいうものの物事にはたいてい表と裏があり、一面では陰の火は夏の意味をもつことから、草木が成長して真っすぐに芽が伸びて行く象徴で、丁の字は釘や打などの漢字に使われているように直角を意味し、安定のしるしともされているという。さらに酉は秋の象徴で、秋は酒造りの季節であることから、酒の字の一部となり、収穫した果実や穀物から作られる酒の意味とかさね、実ったものを確実に取り入れるしるしとも考えられるという。これも真実かどうか、古人の知恵を信じるしかないが、もしそうであれば、あながち悪い年とも言えない。昨年は丙(ひのえ)申(さる)で陽の年であったそうだが、今年は佳きにつけ、悪しきにつけ、すこしは落ち着いた穏やかな年であってほしいものである。
干支は六十年で一巡りし、それによれば、昭和三十二年もこの年で、石橋湛山首相が病に倒れ、岸内閣が発足した年である。戦後の日本はまだまだ貧しく、岸内閣は、貧乏、汚職 暴力の「三悪追放」というスローガンを掲げて発足したものの、なかなかこれといった目覚ましい成果は得られず、自衛隊が増強され、憲法調査会などが創設された、と、戦後史の中で記録されている。東海村に日本初の原子力発電所が設けられたのもこの年だった。
岸信介氏は戦時中は東条内閣の商工相として入閣、軍需相なども務めたが、機を見るに敏で、敗色濃くなるころには早期の講和を提唱、終戦の前年ころから東条英機首相や軍部とは対立姿勢をとっていたことも事実で、戦後一旦はA級戦犯の被疑者となったものの、不起訴となったという経歴の持ち主である。
六十年後の今日、岸の孫にあたる安倍首相がどのように国政を運営していくか、国民は今度こそしっかり見守っていかねばと思う。
実は六十年前の丁酉の年に、大学を卒業したわたしは社会党の議員だった伯父に呼びつけられて、東京でしばらくの間暮らした。今でいう就活の時期である。国会にもたびたび足を運んだが、目指すところが政治ではなかったし、おまけに世間知らずの未熟者で、当時のことはあまり覚えていない。
けれども復興途上の東京の熱気はすさまじかった。戦災を免れた京の平安とは大違い、朝夕の通勤時間ともなると、下駄履き、大半がくたびれた戦時服姿のサラリーマン(そのほとんどが男性)が、あるいは手ぬぐいを腰に下げ、あるいは風呂敷包みを小脇に抱え、または布製の頭陀袋を肩にかけ、工事中の地下鉄や省線の、殆ど板を渡しただけの数知れない階段を、黙々と足音高く土埃を立てて上ったり下りたりし、満員電車に押し込まれていった。当時の、人いきれでむっとする埃くさい地下道一帯に響き渡っていた軍隊の行進のような足音を、現在見まがうばかりに整えられた地下鉄のエスカレーターでのぼるとき、しみじみ思い出すことがある。病み上がりで大卒、資格もなにも持ち合わせない女を雇ってくれる職場など、おいそれと見つからず、それでもいつか世に出ることを夢見て、よるべない思いで縁続きの家から紹介して貰った家庭教師の仕事であちらこちらに出向き、芯のところは生意気で、せっせとノートに好きなことを書き散らしていた。夫と出会ったのもこの年だった。
暮から元旦にかけて関東の気象はほぼ晴朗で、年末からテレビでは、初日の出が見られる年、と盛んに報じていた。夜明けに、いつものように窓を開けて部屋の空気を入れ替える。ベランダから一望に眺められる家並みの連なりは広大で、右を見れば、はるかかなたに東京タワーが、細い瓶を立てたみたいにビルと家並みのはざまに見え、左は多摩川の対岸にひろがる川崎市街に、最近競い合ってそそり立つ高層マンション群のあいだから雪をかぶった富士の山頂が、丹沢から奥多摩へとつらなる関東山系の山並みの背後にひときわ高く、はるか夢のように美しい姿を見せている。そしてあとは雲一つない冬の空が果てしなく広がっているのである。
今年は江東の地に、できれば足を運んでみようと、年末から年始にかけて永井荷風の「日和下駄」や小説「墨東綺談」を読み、興津要先生注釈の「江戸小咄」や「江戸の食べ物」なども拾い読んだりして過ごし、三日は、早くも開かれたリハビリテーションセンターに出かけ、互いに手足や脳味噌の衰えを何とか耐えて運動に励んでいる老朋と新年の挨拶を交わし、暮からの身体のこわばりをほぐした。
正月気分もそろそろ終わる連休続きの晴れた日の朝、居間のほうからDVD映画の音楽が聞こえてきた。懐かしい「クワイ川マーチ」のメロディである。一九七六年に日本でも上映された古い映画「戦上にかける橋」だ。急いで見に行く。
居間に続く食堂では食卓の上に広げた紙に、小学六年生の孫が太筆を握って、宿題の書初めに腕を振るっている。出された課題は「夢の実現」。親たちがあれこれ口を出し、映画は誰も見ていないので、独り片隅の椅子に腰を掛け終わりまで見た。
話は第二次大戦中のビルマの国境付近にあったアメリカ兵捕虜収容所が舞台だが、バンコックとラングーン間の日本軍による鉄道架設をめぐって、イギリス軍捕虜兵士たちと、アメリカ兵の脱走の英雄が見せる、過酷なジャングルの環境での不死身の行動が繰り広げられ、ストーリーは数々の展開を見せる。指揮する早川雪州扮する剛直な日本人将校斎藤大佐の、ともすればあまりにも過酷な仕打ち、軍律や国際法遵守を主張して譲らぬ誇り高いイギリス兵捕虜の隊長ニコルソン大佐、闊達で自由な発想で動く不屈のアメリカ兵捕虜で脱走を敢行するシアーズ、それぞれがおのずから反映させるお国柄からにじみでる人間味。最終近く、クワイ川に、鉄路にもなる頑丈な木橋の構築を日本軍と協力して見事に成功させた隊長ニコルソン大佐が、日本側の隊長斎藤大佐とともに完成した橋に佇み、美しい夕映えを前にして、背を向けたまま打ち明けるシーンがある。「わたしの人生も終わりに近い.軍隊生活二十八年で家族と暮らしたのは通算十ヶ月くらい。それにも慣れた。だが近ごろふと考える。いったいわたしにとって人生の意味はなんだったのかと。何か意義のある誰かにとって役に立つことができただろうか」というセリフに、心が沁みる。身につまされ、はらはらして視聴しているうちに、ドラマはクライマックスを迎える。橋架設の情報をキャッチしたアメリカ軍の指令で、橋を爆破する決死隊として戻ってきたアメリカ脱走兵シアーズ一団と完成させた橋を死守する日本軍および協力した捕虜たちとの死闘のシーンである。爆破を阻止しようとした斎藤隊長は刺殺され、ニコルソン大佐は日英両軍の射撃に遭い、爆破器の点火箱の上に倒れ込む。シアーズも射撃で倒れ、橋は時刻通り進行してきた列車もろとも崩れ落ちてゆくのであった。あとには「一九四三年、ニコルソン隊長の指揮下イギリス軍が設計、架設」と記された看板だけが、むなしくクワイ川に浮かんでいた。
多くの命を犠牲にした「夢の実現」はかくして潰えた。
しかしこの事件にはもう一つの後日談がある。昨年九月三日の東京新聞に「『死の鉄道』へ贖罪の人生」という大見出しの記事が掲載され、ドキュメンタリー映画「クワイ川に虹をかけた男」が好評。という紙面を読み、とってあったのを思い出した。元日本兵永瀬隆氏の体験をもとにこの泰緬鉄道の実情をもう一つの側面から捉えたドキュメンタリー映画の紹介だった。永瀬氏は当時通訳兵として日本軍の捕虜の扱いの残虐さをつぶさに見、人間のすることではないと忘れられず、戦後処理を放置する政府に憤りを感じ、贖罪を志した。海外渡航が許されるや、現地を再三訪れて捕虜たちの霊を慰め、私財をなげうって、元捕虜と日本側関係者の和解の再会を実現。タイの学生向けの奨学基金も設けられ二〇一一年九十三歳で倉敷市で亡くなられたという。戦争とは何なのか、新年早々考えさせられた。
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