再び日記「回復まで」より、今日の日付の記述を読む。
6月に乳がんの手術を受け、身も心も回復期にあったサートン。静かに運命を受け入れ、終わりの無窮のときが近づいていることを予感しつつ、なお創作の意欲に燃え、人間関係に悩み、読書と思索と友人たちとの会話を通して、よりよい生をめざす日々である。
暑さも漸く下火となり、草むらに秋の蟲のすだく音を聴くことができるようになった。秋の夜長、思索のときでもある。同じ日付の日記を読んでみることにし、彼女が引用している文章と、彼女のコメントを、転載することにする。
「アンリ・J・Mヌーエン(註サンパウロの聖職者。詳細不明)の「孤独から」という説教をまとめた小さな本を読んでいると、こんな部分に出会った。
ーひとりになれる場所を持たなければ、自分の生が危険にさらされるということを、わたしたちはどこかでわか っている。沈黙がなければ言葉は意味を失うこと、聴く耳がなければ話す言葉は心を癒すものにはならないこ と、距離をとらなければ親密さは人を救いはしないことを、どこかでわかっている。孤独な場所をもたなけれ ば、わたしたちの行為はただちにむなしい身振りに終わることをどこかでわかっている。沈黙と言葉、引くこ ととかかわること、距離と親密さ、孤独と共同生活のあいだの注意深いバランスは、キリスト者の生活の基礎 をつくるものである。ー
それは芸術家の生活についても言え、バランスを見つけることは、終わりなき葛藤だ。(中略)
表現されないものは存在しない、というのはおそらく真実ではないことをかろうじてだけれど理解するようにも なった。もちろんこれは作家の信念として。言葉とは、彼または彼女が拠って生きるものであり、その全人生は おのれが信じ、また感じることを言葉で表現する闘いである。」
サートンの引用とコメントはさらに続く。次の言葉は、キリスト教説教者としてのヌーエンの発言ではあるが、たとえ、特定の信仰を持たなくとも、真に孤独のなかで瞑想を重ねるとき、ひとの心が成熟してゆく課程を示すものとして、注目に価する言葉であると思うので、書き写しておこう。
ー孤独の中で、われわれは所有欲というむなしい仮面をゆっくり脱ぐことができ、われわれ自身の中心にいるのはかちとって得たものではなく、あたえられたものであることを発見する・・・所有することより、生きてあることのほうが重要であり、努力の結果よりもわれわれの存在自体に価値があると発見するのは、この孤独のなかでだ。人生は、他者に侵入されまいとして防御するわが身だけのものではなく、他者とともに分かち合う贈り物であると発見するのも、この孤独のなかでだろう。ー
今夜はこの辺で。
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