敗戦の年の記憶ー八月十五日前後の日々 高沢英子 二〇一九年十月
昭和二十年三月十三日の深夜、燈火管制で真っ暗な伊賀上野の夜空に、突如重苦しい轟音が、けものの唸り声のように覆いかぶさってきた。はっと目が覚めた私が布団の中で身を縮めていると、少し遅れて警戒警報のサイレンが不気味なトーンで高らかに重なった。跳ね起きて傍でまだぐっすり眠っている妹を起こし、急いで枕もとに置いてある防空頭巾をかぶると肩掛けカバンの紐を握りしめ、体をこわばらせて座った。モンペや上着はずっと着たまま寝ている。不気味な響きは延々と続き、ようやく遠ざかりかけた頃、雑音だらけのラジオから、緊迫したアナウンスが流れた。
ー只今敵機B29伊賀上野の上空を通過中ー
その夜襲来したアメリカの爆撃機B29は二百七十四機。さらに南方のグアム島から四十三機、テニアンから107機、サイパンから124機の爆撃機が応援に駆け付け、大阪市を目標に約三時間半にわたって二千メートルの低空飛行で焼夷弾を投下、市街地の大半を焼き尽くした。
東京もすでに前年の十一月から百回近くの空襲を受け、年明けから激しさを増していると伝えられていた。
ラジオからは、日を追って東南アジヤの島々での日本軍の壊滅的な敗退のニュースが「玉砕」という表現で「海行かば水漬く屍・・」の旋律と共に流され、 本土決戦も間近、という声。明日をも知れぬ日々だった。
旧制女学校三年生だった私は、春から 町に新設された工業用ダイヤモンドの加工会社の工場で、勤労学徒として働くことになった。
仕事は、海軍が潜水艦探知に使う電波探知機の部品のタングステン線の製作工程で、線の太さを決まった規格に整えるのに鉄より硬度の高いダイヤモンドを使うため、小さく砕いたダイヤモンドに所定の穴をあける作業だった。二百名の三年女学生全員が、午前中は工場敷地内での防空壕掘り、午後は作業の研修を受け、仕事を開始した。
それは、フルスピードで回転する機械の先に小さく砕いた宝石の粒をハンダ付けし、小型の顕微鏡を覗きながら、もう一方の機械の先に取り付けダイヤモンドに向かって激しく打ち続ける針先をやすりで削りととのえ、ダイヤモンドが美しい山形の曲線を描きながら直径O・三からO・一八ミリ程度のサイズになるまで削り続けていくという作業だった。
ダイヤモンドは、家庭から献納品として集めてきたアクセサリーをカットしたしろもの、皇室からも放出されていると聞いた。国家存亡の時である。指輪もネックレスもいらない。お国の為になるならば、と少女達は教わった工程をフルスピードで身につけ、懸命に働いた。「月月火水木金金」という標語がお題目のように唱えられた時節。休日返上は当り前のこと。製品は絶対に精密でなければならず、審査が通らないと何度もやり直し、万一貴重なダイヤが飛んだときは、グループ全員、懐中電灯を手に床を這いずり回って捜した。
作業に熟練した私達は、いまだに両眼を開いたまま、顕微鏡にセットされた物の形態を正確にメモできるスキルが身についている。
その間にもアメリカ軍の無差別空爆は益々激しさを増した。警報が鳴るたびに私たち女学生は工場から走り出て、指示された裏の竹藪に避難、低空飛行で機銃掃射を浴びせる敵機の襲来に怯えた。警報が遅れ、避難が間に合わなかったこともある。板にブリキを張り付けただけの作業台の下に潜り込んだが、バラックの工場の屋根を貫いた弾丸が数発、作業台に突き刺さったこともあった。勤労奉仕で女学生たちが掘った防空壕は、工場の幹部たちが使っていた。
八月六日、広島に人類始まって以来の恐ろしい威力を持つ爆弾が落とされ、続いて九日、長崎が同じ爆撃で壊滅したというニュース。。
八月十五日正午、徴用の男女工員たちと女学生全員、集会所に集まるようにと告げられた。機械がすべて止まり、しんとした作業場を出てんみんな何の事か解らぬまま、集会所の土間に膝を揃え肩を寄せ合って坐った。壇上に置かれたラジオから緊張した声が、天皇自らが重大な布告をする、と告げ、流れてきたのは天皇の日本の敗戦を告げる布告、いわゆる玉音放送であった「堪エ難キヲ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カントス・・・爾臣民克ク朕ガ意ヲ体セヨ」ゆっくりしてややくぐもった沈痛な昭和天皇の声は、七十数年たった今も私の耳に残っている。一瞬の沈黙の後、工場長が汗とおそらく涙で顔をてかてか光らせ壇上に飛び上がり「皆さん、私にお命をください」と上ずった声で叫んだ。女工さん達はわけがわからないまま泣き、女学生達は茫然と顔を見合わせ、言葉もない。ひと先ず解散し、家で待機せよということで帰途についた。町に人影はほとんどなく、夏空に太陽がぎらぎら輝いて、遠い城あとへと真直ぐ続いている乾いた通りを灼いていた。
まもなく広島や長崎の耳を疑う悲惨な状況が伝わってきて沖縄のひめゆり部隊の胸凍るむごい真実も知った。彼女らは私達とほぼ同年と聞いた衝撃は大きかった。畑になっていた運動場を先生方も総出で地ならしし、二学期の授業が始まった。授業の内容はがらりと変わった。都市部から多くの人々が町に移ってきた。疎開してきた女学生たち、外地から引き揚げてきた家族の娘たちを受け入れ、女学校のクラスの人数は七十名ほどに膨れあがった。町でも多くの戦死者が出ていて、私の身辺の従兄や叔父、知り合いの息子さんたちも、学業なかばで戦場に赴き二度と帰ってこなかった。伯母は「お母さん、もう目が見えなくなりました」という最後のハガキを握りしめ、帰らぬ一人息子を思っては泣いた。
この戦争はなんだったのだろうか。懐かしい笑顔を折りに触れては思い出し、苦しい記憶を抱いて生きてきたこの歳月。近年また同じことがむし返されそうな予感が日に日に強くなってきて、私を脅かしている。
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