草の戸随想248号10月 小伝馬町界隈
天災は避けようがないのが恐ろしいが、人災も場合によっては避けようがなく、大きな被害となる。いま私の住んでいる日本橋近辺は、江戸時代に、大きな火災に何度もあい、そのたびに、町全体が幕府の取り決めで移住して新しい土地で新しい街づくりをしたりしている。散歩していると、ときどき道端にそんなことを説明する案内版が目につく。
木と紙の住まいの簡便さには、古来から日本人のこうした天災や人災に立ち向かう知恵と感覚のしたたかさや柔軟さが籠められていることを、いまさらながら気づかされるのである。
民族の生活感覚の原点は、やはりその地の気候風土や天災に負うところが多いのはあたりまえかもしれないが、それ以外にも、日本では「地震、雷、火事、おやじ」などという言いまわしがある。狭い土地に人がひしめく都市では、火事はやはり恐ろしい。
おやじが恐ろしいかどうかは、今日では、このおやじの威嚇は、実は、虎の皮を被る狐のパフオーマンスみたいなもんだった、ということがばればれで、いまや死語に近いものになっている。
千代田区やお隣の文京区は、もとはお膝元に近く、武家の家や大名屋敷も多かったのだろうが、北の端の岩本町から、水天宮通りと江戸通りが交差しているあたりは伝馬町で、小伝馬と大傳馬にわかれている。目と鼻のさきは日本橋だ。いま地下鉄の日比谷線が通っているが、この界隈は、江戸時代は大きな牢獄があった場所だそうである。
およそ二六〇〇坪ほどの牢獄屋敷は、時代小説などにも登場しているかもしれないが練塀(瓦と煉り土を交互に積み上げててっぺんを瓦で葺いた土塀)で囲われ、堀がめぐらされていたらしい。明治八年、市谷監獄ができるまで使われていた。刑場も同じ場所にあり、岩本町から神田の方へ行く途中には練塀町という町名も残っている。
やはり時代劇にしばしば登場する八丁堀も、さほど遠くない。八丁堀は、今は埋め立てられてしまっているが、一帯はまた「東海道中膝栗毛」で名高い弥次郎平衛と喜多八が住んでいたところでもある。
俄かに涼しくなった九月後半の雨上がりの朝、小伝馬町のほうへ歩いてゆき、こじんまりした御寺に行きついた。何気なく入っていくと、庭の片隅に供花や香華に囲まれたお堂があり、ひとりの御老体が掃除をしておられた。近づいて見ると、「江戸伝馬町処刑場跡」という碑がたっていて、お堂の前に吉田松陰などの名をしるした札が並べられている。ご挨拶をされたので、いろいろお話を伺った。
お寺の名は大安楽寺、ご老人は元住職で、今は御子息に譲られたが、祖父の代に京都から来られ、以来代々このお寺を守ってこられたという。
私が京都から来たとあいさつすると、その方も京都生まれと云われ、たいへん懐かしがられた。現在九十歳、昭和三年のお生まれで、祖父の代にこの地に来た、と云われる。
あとで調べてみると、開祖は六本木に今もある五大山不動院大僧正山科俊海師とある。先ほどの老人が語っておられた祖父というのはこの俊海師のことであろうか。
お寺の創建は明治八年ということなので、年齢的に考えると曾祖父でいられたのかもしれない。お堂の規模は大きくないが、関東大震災で堂宇が消失、昭和四年に再建されたとあるから、もとはもっと大きかったのかもしれない。由緒あるお寺とわかった。
創建にまつわるいろいろな話が残っている。牢屋敷が市谷監獄に移転してからは、その跡地はここで多くの死刑囚が処刑されるまで収監されていた場所として忌みきらわれ、荒れ果てていたらしい。人けのない跡地の中で燐火が燃えている、という噂がたち、それを知った山科俊海師は慰霊のため、お御堂を創建する志を抱かれた。当時の財界人安田善次郎、大倉喜八郎の二人がそれに力をかされ、寄進された浄財で、大安楽寺が創建された、という。
「処刑の地」という碑も立っている。
安政の大獄(一八五八年~五九年)で死罪となり、処刑されたのは吉田松陰のほか、福井藩士橋本左内、水戸藩の家老安藤帯刀、さらに頼山陽の三男、頼三樹三郎、小浜藩士梅田雲濱など、九名。それぞれ斬首、あるいは切腹、獄門、獄死という悲惨な最期を遂げた。松陰や頼三樹三郎は斬首という無惨な刑で、刑場となった小塚原は、小伝馬町より北にある荒川区のいま南千住と云われる場所にある。ここでは、腑分け(解剖)などもおこなわれ、「解体新書」で知られる杉田玄白なども立ち会ったことがあるという。遺体は後始末もろくにせず、捨て置かれるのが通常で、松陰の遺体も、小塚原刑場に捨て置かれたのを、弟子たちが引き取りを願って世田谷に社を立てて墓地にした。そこはいま「松陰神社」という名称で、神社となって守られている。同じ時期、死罪にはならなかったものの、政局を批判した学者、浪士、藩士など百人余が、幕府によって重い処罰を受けている。頼三樹三郎は、父山陽がもっとも嘱望していた息子であったというから、痛ましい限りである。
世田谷の松陰神社には、境内に、萩市にある松下村塾を模した建物も建てられている。神社ではあるが、松陰のほかに頼三樹三郎の墓もあり、明治の元勲と云われる人たちの寄進した石灯篭などが並んでいる。
我が家の孫が七五三を祝ったのはこの神社だった。大きな神社はすでに予約がいっぱいで、近所の新田神社は、足利と畠山が仕掛けた姦計で多摩川で溺死という無念な死を遂げた英雄新田吉興が祭神なので、ときには恐ろしいたたりをする神様、との言い伝えもある。孫の祖父になる夫の先祖が畠山の系列だから、祭神の怨霊にたたられるかも、とこじつけて、たまたま空いていたここを選んだ。松陰神社の隣は豪徳寺で、井伊直弼の墓がある。かつて私の主治医だった脳神経内科の長尾毅彦先生は、フランスの前衛詩人ジャン・コクトー大好きというユニークな先生だったが、歴史にも詳しく、松陰神社で七五三参りをした話をすると「こんどは豪徳寺に行っておいでよ。敵同士、隣あってるんだよ。井伊直弼とね」と教えてくれたのを思いだす。豪徳寺はおなじ世田谷区にある曹洞宗の大きな寺で、井伊家の菩提寺なのである。
ペルーの黒船が三月に浦和にやって来た嘉永六年、小田原で地震があり、同じ年の夏に年号は安政と変わる。そして七月にはマグネチュード6を超える大地震が東海地方に発生した。このときは伊賀でも家があちこと倒れたことがあった、うちは倒れなかった。とこどものころ祖母が話していたのを聞いたことがある。
おなじ年の暮には、南海地震が紀州を襲い、津波を救った稲むらの火のエピソードは、小学校の修身の本などで習い、感心したのが記憶に焼き付いている。明けて安政二年の江戸地震では、下町で多数の家が倒壊し、火災もともなって死者が多くでた。吉原の大門では、遊女や客が殺到して地獄の様相を呈したという。
沿岸地方では外国船が出没、内外共に多事多難で、幕府の政情は益々不穏になり、尊皇攘夷論をはじめ日本中が大荒れに荒れる。
そして安政が、万延と替わった一八六〇年、春三月、権力側の中心人物として大きな力をふるった大老井伊直弼が、桜田門外で水戸と薩摩の浪士に襲われて命を落とした。はたして尊皇がよかったのか、攘夷がよかったのか。
だが江戸では
―井伊掃部頭(いい鴨と)雪の寒さに首を絞め―
などという狂歌が作られて流行ったという。
伊勢へのお蔭参りの流行もこの時期で、不安に揺れながら日々を過ごし、世の中がどうなろうと生きていかねば、と江戸のひとたちは、はらを据えていたのかもしれない。いつの時代も、どの国でも、人間には根っこのところで、生きぬいていこうとする力がそなわっていて、なんとかこんにちまで、絶えることなく歴史を築いてこられたのかも、と最近つくづく思うのである。
幸福論
「悪い天気の日はいい顔をすること」と云ったのはフランスの哲学者アランだが(「幸福論」九十一)そして幸福こそ万人が生涯求め続ける目標の最たるものと云っても言い過ぎではないと思う。古来から哲学が追い続けてきたのも、究極的にはそれである。
だが、そもそも「幸福」という言葉が明治になる前の日本にあったかどうか、私は知らない。ちなみに「哲学」という用語も明治の翻訳語であろう。明治の開国で、日本は世界の文明社会に門戸を開いたが、それぞれ数千年の歴史を持つ異文化を取り入れ、消化するのは大変なことだったろうと思う。
江戸時代から蘭学だけは開かれていたから、まったく暗闇というわけではなかったにしても、比較的短時間の間に、あれだけの知的遺産を、自家薬籠中に、とまではいかぬまでも、ある程度消化したのだから、明治の知識人たちのすぐれた頭脳と、渾身の力を籠めて吸収することに賭けたエネルギーと志の高さには感嘆する。これによって日本人はどれほど知的分野を広げることができたか、測り知れないものがある。
科学の分野もさることながら、人文系の世界での言語の転換、これはもう和訳、というより造語の世界で、これなくしては、科学ももちろん確実に広く摂取することはむずかしかったわけだから、大変な難事業だったと思う。
数え切れないほどの外来の抽象概念に、訳語があてはめられて一般化したことは、紛れもない事実で、おかげで科学や人文系学問の方面ばかりでなく、日常語でも日本語は、はかり知れないほど豊かになった。一つ一つ掘り出して来歴を調べると、なかなか興味深いことがわかると思う。
もともと日本語は、他国に類のないカタカナ、ヒラカナ、漢字という三つのルートを持っているから、それだけでも二十六文字くらいしか持たない国に比べると、融通無碍な活用ができるという利点はあるかもしれないが。
丸谷才一先生によれば「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して、口語体を提供したこと」という。「かれらはその事業を見事にやってのけた。・・文明は文体を作る仕事をまるごと小説家にゆだねたのである」と。そして学者や、政治家や、宗教家はその作業にはかかわっていないとし、「歴史家?ゐなかったんじゃないか、よくは知らないけど、学者?文章を書かなかったんだろう、たぶん」というような調子で皮肉を飛ばしておられて思わず噴き出した。
ともあれ森鴎外をはじめとして、多くの作家たちのほかに、在野の福沢諭吉らの功績も大きかったに違いない。
話を「幸福論」に戻そう。アランはフランス近代の哲学者として、多の優秀な弟子たちを世に送り出したが、自身は生涯パリの有名中学の一教師として生きた。いわゆるドイツ観念論とは別の路線で、プラトンやデカルトを徹底的に学んだその理論は強靭で繊細、平易な文章で書かれているので、つい見逃しがちのすぐれたな知恵に溢れている。
フランス文学を専攻した若いころは、まことに思慮が浅く生意気で、アランの言うことが気に入らなかった。「滅私奉公」の時代を潜り抜けてきた世代で、今考えると、日本人の脳味噌には、幸福という言葉を正当に主張するのは罪悪、という感覚が染みついていて、私などもそれに大いにかぶれていた気がする。
教育界は儒教精神がまだまだ根強く息づいていたし、明治から大正昭和と日本文学はどちらかというと、白樺派などに代表されるトストイの人道主義や、ドストエフスキーの暗い人間認識等を取り入れた深刻ぶった作品がもてはやされ、それがえらいみたいな風潮があった。
しかしそのころフランス文学者で人文科学研究所の教授だった桑原武夫先生は、ご自分のアラン研究の論文が、パリの学会で高い評価を受けたことを、しばしば教室でも自慢された。そして私が在籍していたフランス文学クラスの中で、優秀な学生の多くはアランを信奉していた。
そして、アランが毎日二頁を目安として生涯書き続けたプロポの言説は、いまだに新しく、時代を何十年も先取りしていたことをわたしは最近発見した。
もともとデカルトに深く学んだ人だけに、心と体のつながりには早くから注目していたのではあろうが、哲学の分野を、さらに押し広げて、人間の精神と体の見逃せない関連につねに注目し、生きていく上でのこころとからだの絶妙なバランスを、近代医学の実証などもとりいれて見いだそうとしていたらしいことがわかる。
たとえばプロポのなかに、躁鬱病をとりあつかった「悲しいマリー」という項目がある。それはある心理学の教授のひとりが附属病院でみつ
アランは、この話はもうまるで忘れられてしまったが、覚えておく価値がある、と前置きしたうえで、次のようなコメントを書き記す。
「この娘は時計のような正確さで、一週間は快活、次の一週間は悲しいのだった」つまり快活な時は彼女にとって世の中のすべてがバラ色に見え、彼女は幸福感に包まれる。それにひきかえ悲しい時は全てが灰色の雲にとざされる。そしてこれが医学の検証によると彼女の体内の血球の増減と関係があるというのだ。若いときは読んで、なにをインチキなことを言って、悲しいのは現実が面白くないからで、血球などと関係ない、と思ったのは実にあさはかだった。これは卓説で、この年になって私はアランの賢さに感心し、納得しようと努めている。鬱の時は、私の血球が減っているだけ、と考えると気が休まるというものである。
ただし、これはアランの生きた二〇世紀前半に比べて格段に進歩した現代医学の血球学とは別の次元の問題であることは、はっきりさせておきたいと思う。私の夫は白血病で亡くなっている。難病の血液癌の恐ろしさは、ふつうの健康体の人間の血球の数値云々とは、別の話であることだけはお断りしておきたい。
スポンサーサイト