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プロフィール

高沢英子

Author:高沢英子
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 伊賀上野出身
 京都大学文学部フランス文学科卒業

 メイの会(本を読む会)代表。
 元「VIKING]「白描」詩誌「鳥」同人

著書:「アムゼルの啼く街」(1985年 芸立出版) 
「京の路地を歩く」 (2009年 未知谷)
   「審判の森」    (2015年 未知谷)     

共著: 韓日会話教本「金氏一家の日本旅行」(2007年韓国学士院)
 現在メールマガジン「オルタ」にエッセーなど寄稿。

 

東京都 千代田区在住


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わが街かわら版                 高沢英子
  ⑩ヴァ―ジニア・ウルフの挑戦^
 東京都美術館が、モスクワのプーシキン美術館所蔵の十七世紀から二十世紀のフランスの風景画展を開催していると娘に誘われ見に行った。
すぐれた芸術作品は時代の変化をいちはやく感じとる。いつの時代も、才能ある人たちは革新的だった。
ヨーロッパでは十九世紀後半から哲学や社会学心理学などに新たな人間性への洞察が生まれ、知的分野の視界の広がりとともに芸術界でも新しい動きが起こり、絵画では後期印象派と呼ばれる画家たちの空間と時間による自然の光の変化を捉えた描写がひとびとを魅了し、描かれる対象は普通の生活を営む人々や日常そこにあるものとなり、貴族社会の独占物でも宗教に基づく物語世界でもなく、生活に視点を置いたテーマがもてはやされるようになる。
文学の世界でも新しい動きがあった。紅茶に浸したマドレーヌが舌に呼び覚ました感覚を辿り、大作「失われた時を求めて」を書いたプルースト、ダブリンの中年男を主人公に、四十八時間の行動と意識を描いたジョイスの「ユリシーズ」などの作品が世に出る。
イギリスの女性作家ヴァ―ジニア・ウルフはこの技法を学び、登場人物が、刻々と移り行く身の回りの情景を追いながら、心の眼に浮かび上がる過去や未来の喜びと苦悩に絡みとられる意識の流れを、透徹した感知力と、リズムに富んだ筆力で鮮やかに描き出し、独自の境地を拓いた。
また彼女は、歴史的に偏ったイギリスの男性中心の社会差別に不満を抱き、女性が自分自身の文學形式を真に創造する為には何が必要かを論じた名エッセー「わたしだけの部屋」で、論文のかたちでなく、架空の女性主人公が、女人を拒否する大学構内をさまよいつつ思いにふける、という筋立てで男性の空威張りや規則にこだわる滑稽な姿を皮肉たっぷりに描き、女性が書く力を持つ為には十九世紀後半十九世紀後半自分だけの部屋と年20ポンドの金が必要不可欠と結論づけた。
不幸にして精神の病に苦しめられ、第二次大戦の始まった一九四一年、五十九歳で、終生良き理解者だった夫レナードに「これ以上あなたの人生を台無しにできない」と書き遺し、住まい近くのウーズ川に入水自死を遂げた。





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わが街かわら版
⑨迷路 野上弥生子
  日本の年号がまた変わる時期がきた。明治・大正・昭和と生きた人々が、身辺からひとりまたひとり、世を去っている。歴史は繰り返すとはよく言われる言葉だが、公的に記録された事象だけが真実を語るのではないことを、身をもって知った人々が殆ど声をあげることなく消えて行くのはやりきれない。身辺にうそ寒い風が吹きはじめ、世界が不気味に揺れ動く気配を見せている昨近、尚のこと不安と危惧が募る。
一九一九年(昭和六十年)百歳を目前に他界した野上弥生子の晩年の大作「迷路」は、もっと読まれていい作品と思う。これほど確かに時代を見据えた作品を書いた女性作家は、日本ではほとんど無いに等しい。最初一九三六年(昭和十一年)秋「黒い行列」という表題で中央公論に連載として書き始められ、翌年十一月「迷路」と改題。時代の波に翻弄されつつ懸命に真実に生きようと試みる知識層の男女を描いた魅力ある恋愛小説、とも読める作品だったが、作者はそれきり筆を折った。同年十二月、ヨーロッパの反ファシズム、反帝国主義の人民戦線運動に触発されて動いた日本の活動家の弾圧が始まり、加藤勘十、山川均、荒畑寒村をはじめ拘束された人物一千人に及んだ時代が執筆を許さなかったのだ。けれども彼女は戦後再び筆を取り、無謀な戦争で国民の多くが悲劇的人生へと突き進む時代に、苦悩する若者を主人公にし、岩波文庫で通算約一二〇〇頁に及ぶ大作「迷路」を一九五六年に完結させた。九州の裕福な醸造家に生まれ東京帝国大学に進学し、学生運動で中退せざるをえなかった菅野省三を主人公に、身辺の多彩な人物像をありありと描く。最初の舞台は東京の特権階級で、弥生子の選良意識が垣間見られるが、それはそれとして、それぞれ、人間として信じる道を誠実に懸命に生きようとする姿を、深い洞察と観察に裏付けされた筆力で迫る。日中戦争に駆り出された主人公が捕虜としてとらえられた抗日ゲリラを斬首刑から救い出そうと軍から脱走を図り無残な最期を遂げる結末だが、明治大正の東京を克明に描いた歴史風俗小説として読んでも、ずしりと手ごたえある小説である。
    
わが街かわら版 ⑦        高沢英子
 マジョルカの冬ージョルジュ・サンドとショパン 

四〇数年前、ミュンヘンから帰国の途に就く前に、私たちは同じく帰国する日本人の家族と、スペインのマヨルカ島で数週間を過した。沖縄本島の三倍ほどの大きな島で古い歴史を持ち、修道院や大聖堂もあり、手ごろな観光地としても有名だった。
季節は早春、バルセロナから船で渡れるこの島の首都パルマのホテルは、厳しい冬の寒さを避けて、比較的安い費用で長期滞在して楽しんでいるドイツやイギリスの高齢の年金生活者たちでいっぱいで、夜はダンスパーティを開いたり、海辺の散歩や、島の有名な洞窟を船で廻り、起伏の多い島なかを自転車で走ったりと、思い思いに長い冬を楽しんでいた。雨の少ない土地で、ショパンがトルコ玉のような、と言った青い空と瑠璃色の海で、子供たちは一日中泳ぐことができた。
およそ二〇〇年前の一八三八年秋一〇月、フランスの作家ジョルジュ・サンドは、友人に「天国のよう」とすすめられ、二人の子供と、ポーランドから来た若いピアニスト、ショパンを伴い、このマヨョルカ島に二月まで滞在している。二年前に知りあい親密になったショパンとの仲が、パリの社交界でとかく噂の種となっていたので、既に肺の病に侵されていたショパンの療養目的もかねた逃避行だった。
かれらが滞在したのは、バルデモサ村のシャトルーズ(カルトゥハ)修道院、標高の高い山間にあり、平地の暖かさと違い冬は凍りつくような寒さ。おまけに雨季とあって、旅行は困難を極め、病状は悪化、保守的な村人の冷たい目を浴びて居心地も悪く失敗に終った。
だが精力旺盛なサンドは、ショパンの看護や薬の調達とかいがいしく動きつつもペンを取り続け、病苦のショパンも取り寄せたピアノで、二十四の前奏曲やポロネーズ「軍隊」、雨だれの曲などの名曲を作曲した。
三年後サンドは「両世界評論」に詳細な風土の紹介付きの紀行文「マヨルカの冬」を掲載。その本は彼らが滞在した僧房で山積みして売られていたが村民をダンスと歌うことしかできず考えない愚か者達などとちらちら書いてあり、出版当時村人ををかんかんに怒らせたとか。
わが街かわら版 ⑦           高沢英子
  コレットの「青い麦」
早春、秋に撒いた麦の種がいっせいに青い芽を出し、麦踏みは大事な農作業のひとつになる。風がまだつめたい季節、蟹の横這いのように、畝に沿って踏んでゆく。夏のフランスの旅では、車窓から見渡すかぎりの小麦畑で、みのりをむかえた麦の穂が、吹く風に青い海のように波打っていたのを思い出す。麦は踏まれたら強くなるらしい。
一九五四(昭和二十九)年八月、パリでひとりの作家が世を去り、フランスは彼女を国葬で葬った。作家の名はシドニー・ガブリエル・コレット。一八七三年(大正六年)生まれ、大衆作家の幼な妻となり、夫のすすめでペンをとる。離婚後、パントマイムの芸で自活。編集者との再婚、離婚と、自由奔放な生涯で一女を育てあげ、心に沁みる数々の名作を残した。小説「青い麦」は、夏の海辺を舞台に、毎年家族とパリからやってきて、隣同士の別荘でヴァカンスを過す幼馴染の十五歳の少女と十六歳の少年の幼い恋を描き、一九二二(大正十一)年断続的に「ㇽ・マタン」誌に掲載、翌年出版された。
成熟するにつれ、互いに惹かれ合い反発と魅惑にさいなまれる二人の前にあらわれる年上の美しい女。彼女にいざなわれ、夜明けにひそかに帰ってくる少年の足音に耳を澄ませる少女の苦悩。
空の光、砂地に這うはりえにしだの花、潮に洗われた岩々の割れ目を逃げ去る蟹、夏の海辺の渇いた自然の風景が、微細な心の襞をも見逃さない濃密な心理描写と一体化し、未熟な魂と成熟期の肉体の葛藤を描く筆の深みにいつしか絡みとられ惹きこまれ、ときには遠い追憶の断片に光が当てられ、多様な局面から愉しめる小説の醍醐味を味わわせてくれる佳作だ。
訳者堀口大学紹介のフランスの評論家曰く「彼女の作品の中に深遠な哲学も、異常な性格も、求めるべきではない。彼女が知っているのは感覚だけである。だが彼女の言葉は宇宙のきらめきと奇跡を表現している」と。昭和昭和二十八年映画化され日本でも公開された。  
同じ年発表された少年少女の志摩の海辺の恋を描いた三島由紀夫作「潮騒」はこれに触発されたと聞いたが、社会背景や風俗を、男の視点による力強い筆さばきで書き、趣はかなりなり違う。
わが街かわら版⑸
   引きこもりの詩人 エミリー・ディキンソン
大晦日に初日の出を見ようと娘の運転で九十九里浜まで走り、孫と三人、暗い浜辺に陣取って車内で夜を明かした。夜半、ふと気がつくと真の闇と思われたあたりが少し明るみ、海面に白波が見え、見わたすかぎり、さえぎるものもない遠い空に星がまたたき、中天に満月に近い月が輝いていた。陰暦十一月十五日、元旦は十五夜にあたるのだ“月の光にうつしだされた海は静かで、ゆったりと寄せてはかえす波音だけが聴こえてくる。
月は 金のあごだった
一日 二日まえには。
いま 月は 完全な顔を
下界に 向けている

ひたいには たっぷりと金髪、
頬は エメラルドの色、
視線を 夏の夜霧に落としている
わたしの 一番好きな 月のすがた
と歌ったのはアメリカの近代随一の詩人ともてはやされるエミリー・ディキンソン。生涯ニューイングランドアマストの田舎町を出ることなく、喧騒の世界をよそに孤独な自己と向き合い、魂の底から迸る多くの詩を書きのこした。生前発表した詩は匿名の数編にすぎず、死後妹がみつけた遺稿が頒布され、愛好者を得たが、一八〇〇篇におよぶその全貌が研究者の手であきらかになるのは死後七〇年もたった一九五五年だった。その自然を歌う語は繊細さにみちているが、ユーモアにもこと欠かない。わが国でもターシャ・チューダの絵とあたかも協奏曲を奏でるかのような美しい詩画集「まぶしい庭へ」が角川から出版され、晩年には家から出ることさえしなかったという孤高の生涯を描いた「静かなる情熱」というタイトルの映画が昨秋岩波ホールで上演された。
夜が明けた。わたしは目路はるか大海原のかなたから輝く日輪の差し昇る姿を目のあたりにし、その黄金色の圧倒的な美しさに胸つぶれる思いで呆然と立ちつくした。そして、夜の月を愛した詩人ディキンソンが、もしこの日輪を眺めたとすればどんなふうに歌ったことであろう、と思った。浜辺では初日の出を見にあつまった人々が交歓し、寒風のなか、サーフアースタイルに身を固めた男たちが、てんでにサーフボードをかかえ、海にむかっていく姿が、三,三,五,五、黒いシルエットとなって見えていた。                
草の戸随想240号2月
明治大正昭和という時代        高沢英子
年が明けてからきびしい寒さがつづき、世界中が異常気象にのみこまれて混乱しているらしい。マンションの垣根の寒椿もちらほら花をつけ始めたが、気のせいか、例年のように溌剌としていないようすでぐったりしている。
平成はまもなく終わるが、このさきどうなるか、人類は、今よりもっと細心に生きてゆかねばならないかもしれない。
昨年秋 夏目漱石の直系の孫の夏目房之介氏の講演と、後半、房之介と、かれと懇意な漫画編集者、筧 悟氏との対談を聴いた。
以前テレビで一度見かけた房之介氏はすでに初老で、飾り気のない親しみやすい風貌と、率直な語り口は、生前多くの個性豊かな弟子や友人に恵まれて愛された祖父の人柄を、やはりどことなく受け継いでいる感じだった。
始まって間もなく、会場のパネルに漱石の大きな肖像が掲げられた。漱石のプロフイールはそう多く残っていないので、これも私たちがよく親しんでいる写真である。
房之介氏は「漱石が五十一歳で世を去ったとき、長男の純一は九歳だった。ぼくは純一の息子なので、祖父には会っていない、だからほんとにこんな顔だったかどうかわからない」と憮然とした感じで言われながら、いろいろぼつぼつ話された。
漱石が何であろうと自慢話なんかするつもりはない、という感じが、祖父の性格に似ているのでは?と私はおかしかった。おおらかな性格であった漱石夫人、つまり祖母のことは覚えていられるそうだった。
房之介氏は祖父のように文筆ではなく、絵筆で世の中の諸相を表現することを志された。選んだジャンルは漫画である。ただし漫画といっても、いわゆる諷刺漫画で、かつてはその道の第一人者であった岡本一平の画風に感化されたという。岡本一平は、岡本かの子のつれあいであり、岡本太郎の父だ。
岡本一平の諷刺漫画は大正のはじめから戦前の昭和にかけて、朝日新聞紙面でも大評判で一世を風靡したが、実は岡本一平の才能を見いだして朝日に推薦したのは漱石だったといわれていて、房之介氏とは因縁が深いのもうなづける。
わたしは子供のころ、父の書棚で二冊の対になった岡本一平の漫画集を見つけ、本が自由に手にはいらない時代、この二冊をくりかえし愛読したおぼえがあった。
それは明治大正期に世間にうけた文学作品を題材にした「現代名作漫画」と、当時の世相をヒトコマ漫画にした「現代世相漫画」の二冊だった。私はそれで明治三〇年代大評判となり、今も熱海には彫像まである尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一お宮のいきさつを知り、ダイヤモンドがそんなに人の心を変え、男女の運命まで変えてしまうのかとおどろき,同じ時期、巷の紅涙を絞らせた徳富蘆花作「不如帰(ほととぎす)」の川島武男海軍少尉とその愛妻浪子との悲しい夫婦愛物語や、浪子の墓の前で涙している武男の絵をみて、世にはこういう夫婦もあるのか、と子供心になんとなく納得し、菊池寛作の短編「恩讐の彼方」では恐ろしい罪をかさねてきた男が仏門にはいり、贖罪と世のひとびとのために役立つ志を抱いて、耶馬渓の川べりを通るとき人馬がくさり綱を命綱にして行き来し、命を落とす者すらいるという難所にトンネルを通そうと、たった一人鑿をふるって「洞門」の完成に心血をそそぎ、ついに仇をすら感服させ、協力して三〇〇メートル余のトンネルを掘り終える偉業をなしとげたという話に、つくづく感動し、谷崎潤一郎作の「痴人の愛」では,ナオミという女にぞっこんの主人公に、世にはおかしなひともいるものだ、とあきれたりした。(※註「恩讐の彼方」はフィクションだがこの「青の洞門」は、悪業を重ねた主人公とは別人の実在の高僧禅海和尚の手彫りのトンネルとして今も大分県中津市に残されている)
「現代世相漫画」のほうは、昭和初期、世界的大恐慌の余波で不況だった世相を反映してか、大学の卒業証書を丸めて「こんなものが何の役に立つ」と地面に叩きつけている若い男の姿や、毛皮の襟巻をし、ハイヒールを履いてしゃなりしゃなりと歩いてくるモガ(モダンガール)の膝に「あんねェ。今川焼買ってきてくれたかえ」と縋りつくぼろ着の幼い妹、という構図の絵に「どぶ板踏んでご帰還」という文が添えられているのや、ピアノを弾いている束髪の令夫人か令嬢風の女性の絵の横に「このピアノ、実は自動電気演奏ピアノ」と書かれ、便利なものもあるんだなあ、と感心しながらおかしく、随分愛読したのをなつかしく思い出し、房之介氏が、とつとつと語られる回想談に聴き入った。
ちなみに、岡本一平氏はわたしの郷里伊賀上野にも来られたことがある。確か町のお茶屋で一席設けたとき、同席したわたしの父は、肖像などを色紙に描いてもらい、大事にしていたのを見せてもらったおぼえがある。
さらに岡本一平氏の父上は、津の藤堂藩の儒学者岡本安五郎の次男で、維新後、仕事を失った多くの士族の運命さながら、生活は苦しく、生涯書家というより、看板書きで生計を立てたという岡本可亭なる人物の息子とか。やはり同じ藤堂藩の傘下にあった伊賀にとっても無縁のひとではない。
ところで、現代の日本では、新聞などに政治を諷刺した漫画は挿絵として掲載されるが、世相漫画や、評判になった文学作品の漫画集は一般受けはしていないようだ。我が家のちの好んで読んでいる漫画は、子供向けのもの以外は、ほとんどアニメのSFめいた話が主流のような気がする。房之介氏は、漫画学というジャンルを開拓、ストーリよりもコマと描線に視点を置いて表現技法を分析する、という独自のやりかたで「マンガ表現論」などの著書も出される祖父流の理論派である
漱石の作品の中では「硝子戸の中」がいちばん好きで「夢十夜」もいいと思う、といわれ「虞美人草」は失敗作だと思うが「夢十夜」は漱石が前年書き上げた「文学論」の主張をもとに作品化し、かれの一つのターニングポイントとなったと思う、と。
わたしは大学を病で休学していたあの頃、実家の祖父の本棚にあった漱石全集をほぼ読みつくし「文学論」に感銘して一冊のノートブックに全文筆写したこともあった。なにが書いてあったのか、今となっては思い出せもしないほろ苦い思い出ではあるが、後年、予備校で留学生に日本語を教えていた時、韓国の留学生たちのクラスで漱石の初期の小説をテキストとしてとりあげたこともあった。今思えば乱暴な話だが、かれらはよく理解し、そのなかからすぐれた漱石研究者も出て、現在韓国の大学で日本文学の教授となり、数多くの論文なども発表しているも書いている教え子もいる。
さて夏目房之介氏にとっては、祖父漱石は近くて遠い存在であり、四人の姉たちのあとで生まれた父上純一氏は、漱石については、ただ「怖かった」としか話さなかった、といい、生涯バイオリンを弾き、テニスのコーチをし、それ以外の仕事らしいことはせずに、九十歳まで生き、父親に可愛がられて育った中の二人の姉たちに、よく「お父さんの悪口言わないで」と怒られたりしていたという。昭和五十九年、漱石は千円札の肖像画に選ばれたが、その時も純一氏は突然役所から「お札掲載やります」という一法的な通告を受け、激怒し、ますます生来の役人嫌いが昂じたそうである。
房之介氏自身も人に「漱石のことを話せ」とか「書け」と言われるのが嫌で頭に来ていたが、一九九九年、はじめてロンドンに祖父の下宿をたずね、部屋も見せて貰ったときは衝撃を受け、なぜか思わず涙ぐんでしまった、とのこと。
漱石は中国の作家魯迅を高く評価していたそうで、房之介氏は「二人は、自国の近代化を何とかしなければという共通のポジションをもっていたと思う」と言われ、私も同感した。ただ漱石は魯迅のようには動かなかった、そして、その違いは日本と中国の国情や二人の処世観や性状の違いからであろうか、と考え込むように話され、わたしも少し考えてしまった。
そして昨年、房之介氏は中国で魯迅の孫に会いに行かれた。雑誌「すばる」にそのときの対談が掲載されているという。聴いているうちに、中肉中背で万事ざっくばらんに淡々と話される房之介氏が、漱石にだんだん重なって見えてきた。血というのは不思議なものである。そのうち「夢十夜」や「硝子戸の中」をあらためて読み返し、房之介氏の書かれた漫画も読んで見たいと思っている。          

転居しました

6月十四日
」しばらくブログ休んでしまいましたが、今年4月千代田区のマンションに移り、ひとり住まいを始めました。この機会に、またブログを始めたいと思っています。
とりあえず、毎月かわら版や随想に書いてきたものをコピーしました。続きも又随時コピーし、いろいろ書いてゆきます。
  かわら版⑷「大つごもり」を読んで      高沢英子       
 樋口一葉は市井の片隅で懸命に生きる人々を、語り手の情景描写と登場人物の対話を織り交ぜ目に浮かぶよう描き出し、忘れがたい余韻を漂わせる作品の数々を残した。「大つごもり」もその一つ。
「大つごもり」をテーマにしたものには井原西鶴の「世間胸算用」に笑えぬ悲喜劇を描いた作品があるが、西鶴の面白うてやがて悲しき恍けた才覚の見え隠れするものに比べ一葉のそれが時代の違いを超え一段と心に沁みるのは、行き届いた状況描写と貧しい人々に注ぐ愛のまなざしであろう。
幼い時両親を失い貧しい伯父夫婦に育てられた娘お峰が奉公した先は町内きっての大金持ち、家事は女房まかせの主人と強欲で意地の悪い御新造と贅沢三昧の娘達に先妻の残した放蕩息子石之助という家庭。病に倒れた伯父の一家は逼塞し、八歳の息子が蜆売りをして薬代を稼ぎ大晦日に払わねば済まぬ高利貸の延滞料二円、お峰に主家で借りてくれるようすがる。だがお峰が必死に頼んでおいた約束の大晦日、御新造は聞いた覚えないと撥ねつけ、抽斗に金をしまって出かけてしまう。お峰は、居間の炬燵で昼寝をしている息子ひとり残った家うちで死を覚悟で抽斗から二円を盗み出し、取りにきた子供に渡す。帰った御新造が抽斗をあけると、金は全部消え「引出しの分も拝借いたし候」との置手紙が一枚。先刻暇乞いして遊びに出た息子の仕業ときまる「孝の余徳は我知らず石之助の罪と成りしか、いやいや知りてついでに冠りし罪かも知れず」
樋口一葉は明治5年東京都千代田区の東京府庁構内の長屋で生まれた。幕末志を立て山梨から江戸に出た父は武士の身分を手に入れたが運に恵まれず、跡継ぎの息子も失い失意のうちに世を去った。
一葉は十七歳で家長として一家を支える重荷を負い、もの書くことで生計を立てようとしたのである。師の半井桃水への思慕を胸に秘め、ひたすら家族のために精進した生涯。自己主張の多い女性作家の中できわだって女ごころはおろか寂しい男ごころの襞まで見事に描くことのできた稀有な存在だった。眼識の高い人々は早くからその並々ならぬ才能を見抜いていた。森鴎外は勿論、漱石も常にうまいとほめていたという。


                             
草の戸随想 2018年1月

       明治大正昭和という時代        高沢英子
 年が明けてからきびしい寒さがつづき、世界中が異常気象にのみこまれて混乱しているらしい。マンションの垣根の寒椿もちらほら花をつけ始めたが、気のせいか、例年のように溌剌としていないようすでぐったりしている。
平成はまもなく終わるが、このさきどうなるか、人類は、今よりもっと細心に生きてゆかねばならないかもしれない。
昨年秋 夏目漱石の直系の孫の夏目房之介氏の講演と、後半、房之介と、かれと懇意な漫画編集者、筧 悟氏との対談を聴いた。
以前テレビで一度見かけた房之介氏はすでに初老で、飾り気のない親しみやすい風貌と、率直な語り口は、生前多くの個性豊かな弟子や友人に恵まれて愛された祖父の人柄を、やはりどことなく受け継いでいる感じだった。
始まって間もなく、会場のパネルに漱石の大きな肖像が掲げられた。漱石のプロフイールはそう多く残っていないので、これも私たちがよく親しんでいる写真である。
房之介氏は「漱石が五十一歳で世を去ったとき、長男の純一は九歳だった。ぼくは純一の息子なので、祖父には会っていない、だからほんとにこんな顔だったかどうかわからない」と憮然とした感じで言われながら、いろいろぼつぼつ話された。きまじめに自慢話なんかするのはまっぴら、という感じは、祖父の性格に似ているのでは?と私はおかしかった。おおらかな性格であった漱石夫人、つまり祖母のことは覚えていられるそうだった。
房之介氏は祖父のように文筆ではなく、絵筆で世の中の諸相を表現することを志された。選んだジャンルは漫画である。ただし漫画といっても、いわゆる諷刺漫画で、かつてはその道の第一人者であった岡本一平の画風に感化されたという。岡本一平は、岡本かの子のつれあいであり、岡本太郎の父である。かれの諷刺漫画は大正のはじめから戦前の昭和にかけて、朝日新聞紙面でも大評判で一世を風靡したが、実は岡本一平の才能を見いだして朝日に推薦したのは漱石だったといわれていて、房之介氏とは因縁が深いのもうなづける。
わたしは子供のころ、父の書棚で二冊の対になった岡本一平の漫画集を見つけ、本が自由に手にはいらない時代、この二冊をくりかえし愛読したおぼえがあった。
それは明治大正期に世間にうけた文学作品を題材にした「現代名作漫画」と、当時の世相をヒトコマ漫画にした「現代世相漫画」の二冊だった。私はそれで明治三〇年代大評判となり、今も熱海には彫像まである尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一お宮のいきさつを知り、ダイヤモンドがそんなに人の心を変え、男女の運命まで変えてしまうのかとおどろき,同じ時期、巷の紅涙を絞らせた徳富蘆花作「不如帰(ほととぎす)」の川島武男海軍少尉とその愛妻浪子との悲しい夫婦愛物語や、浪子の墓の前で涙している武男の絵をみて、世にはこういう夫婦もあるのか、と子供心になんとなく納得し、菊池寛作の短編「恩讐の彼方」では恐ろしい罪をかさねてきた男が仏門にはいり、贖罪と世のひとびとのために役立つ志を抱いて、耶馬渓の川べりを通るとき人馬がくさり綱を命綱にして行き来し、命を落とす者すらいるという難所にトンネルを通そうと、たった一人鑿をふるって「洞門」の完成に心血をそそぎ、ついに仇をすら感服させ、協力して三〇〇メートル余のトンネルを掘り終える偉業をなしとげたという話に、つくづく感動し、谷崎潤一郎作の「痴人の愛」では,ナオミという女にぞっこんの主人公に、世にはおかしなひともいるものだ、とあきれたりした。(※註「恩讐の彼方」はフィクションだがこの「青の洞門」は、悪業を重ねた主人公とは別人の実在の高僧禅海和尚の手彫りのトンネルとして今も大分県中津市に残されている)
「現代世相漫画」のほうは、昭和初期、世界的大恐慌の余波で不況だった世相を反映してか、大学の卒業証書を丸めて「こんなものが何の役に立つ」と地面に叩きつけている若い男の姿や、毛皮の襟巻をし、ハイヒールを履いてしゃなりしゃなりと歩いてくるモガ(モダンガール)に「あんねェ。今川焼買ってきてくれたかえ」と縋りつくぼろ着の幼い妹の姿の絵に「どぶ板踏んでご帰還」などの文が添えられているのや、ピアノを弾いている束髪の令夫人か令嬢風の女性の絵の横に「このピアノ、実は自動電気演奏ピアノ」と書き添えられ、そんな便利なものもあるのかと感心しながらおかしく、随分楽しく愛読したのをなつかしく思い出し、房之介氏が、とつとつと語られる回想談に聴き入った。
ちなみに岡本一平氏は伊賀にも来られたことがあり、確か上野のお茶屋で一席設けたとき、同席した私の父も肖像などを色紙に描いてもらい、大事にしていたのを見たおぼえがある。それに岡本一平氏の父上は、津の藤堂藩の儒学者岡本安五郎の次男であり、維新後、仕事を失った多くの士族の運命と同じように苦しい日々の生涯で、書家というより、看板書きで生計を立てた岡本可亭という人物の息子とか。やはり同じ藤堂藩の伊賀にとっても無縁のひとではない。
ところで、現代の日本では、新聞などに政治を諷刺した漫画は挿絵として掲載されるが、世相漫画や、評判になった文学作品の漫画集は一般受けはしていないようだ。我が家の孫たちの好んで読んでいる漫画は、子供向けのもの以外は、ほとんどアニメのSFめいた話が主流のような気がする。房之介氏は、漫画学というジャンルを開拓、ストーリよりもコマと描線に視点を置いて表現技法を分析する、という独自のやりかたで「マンガ表現論」などの著書も出される祖父似の理論派である
漱石の作品の中では「硝子戸の中」がいちばん好きで「夢十夜」もいいと思う、といわれ「虞美人草」は失敗作だと思うが「夢十夜」は漱石が前年書き上げた「文学論」の主張をもとに作品化し、かれの一つのターニングポイントとなったと思う、と。
わたしは、大学を病で休学していたあの頃、伊賀の家で祖父の本棚にあった漱石全集をほぼ読みつくし「文学論」に感銘して一冊のノートブックに全文筆写したこともあった。なにが書いてあったのか今となっては思い出せもしないほろ苦い思い出ではあるが、予備校で留学生に日本語を教えていた時、韓国の留学生たちに漱石の初期の小説をテキストとしてとりあげたこともあった。今思えば乱暴な話だが、かれらはよく理解し、そのなかからすぐれた漱石研究者も出て、現在韓国の大学で日本文学の
教鞭をとり、漱石研究の論文も多く書いている教え子がいる。
講話の後半、筧悟氏との対談になった。房之介氏にとっては祖父漱石は近くて遠い存在であり、四人の姉たちのあとで生まれた父上純一氏は、父漱石については、ただ「怖かった」としか話さなかった、といい、生涯バイオリンを弾き、テニスのコーチをし、それ以外の仕事らしいことはせずに、九十歳まで生き、父親に可愛がられて育った中の二人の姉たちに、よく「お父さんの悪口言わないで」と怒られたりしていたという。昭和五十九年漱石は千円札の肖像になったが、その時も純一氏は突然役所からお札掲載「やります」という一法的な通告を受け、激怒し、ますます生来の役人嫌いが昂じたそうである。房之介氏自身も人に「漱石のことを話せ」とか「書け」と言われるのが嫌で頭に来ていたが、一九九九年、はじめてロンドンに祖父の下宿をたずね、部屋も見せて貰ったときは衝撃を受け、なぜか思わず涙ぐんでしまった、とのこと。
漱石は中国の作家魯迅を高く評価していたが、これについて房之介氏は「二人は、自国の近代化を何とかしなければという共通のポジションをもっていたと思う」と言われ、私も同感した。ただ漱石は魯迅のようには動かなかった、とも。昨年房之介氏は中国で魯迅の孫に会いに行かれた。雑誌「すばる」にそのときの対談が掲載されているという。聴いているうちに、中肉中背で万事ざっくばらんに淡々と話される房之介氏が、漱石にだんだん重なって見えてきた。血というのは不思議なものである。「夢十夜」や「硝子戸の中」をあらためて読み返し、房之介氏の書かれた漫画も読んで見たいと思っている。          
私の宝箱から⑶                   高沢英子             
 光ある身こそ苦しき思いなれ
京都に居た時、鴨川のほとりで生涯を終えた頼山陽の旧跡を時折訪ね、山陽の才能ある弟子として、親交の深かった加賀の女性詩人江馬細香の存在を知った。
日本では、平安時代の女性文学作品があまた残されているにもかかわらず、南北朝以後江戸が終焉する明治初期、樋口一葉が出て来るまで、女性が何かを書いたという記録は、せいぜい加賀の千代女の俳句くらいで、文学史上殆ど登場しない。私はかねて江戸時代は日本人の識字率が世界でも突出して高く、儒者や漢詩人が多くの著書を出版し、和歌、俳諧、川柳、読み本、戯作本も数知れず、芝居小屋の繁盛した文化全盛期だったのに、ものを書く女性が世に存在しなかったとはおかしい、と思っていた。 
だが実は、江戸期にものを書いた女性は確かに多く存在していた。寡聞にしてその事実を知らなかった私の眼を啓いてくれたのは一九九八年出版の門 玲子著「江戸女流文学の発見」(藤原書店)だった。登場する女性文人は細香はじめ五十数名、三百数十ぺージに及ぶ労作で、副題として文人の一人、只野真葛の和歌「光ある身こそ苦しき思いなれ世にあらわれん時を待間は」の上の句を添えていたのが目を惹いた。著者も江戸期の女性文学者達の強烈な自負心にしばしば圧倒されたといい、それが彼女たちの文学を支えたのであろうと書いている。
只野真葛(工藤綾子)は宝暦三年(一七五三年)仙台藩江戸詰医師工藤平助の娘として日本橋に生まれ、裕福な教養ある家庭で充ち足りた少女時代を送り御殿勤めなど体験した後、三十五歳で仙台藩士只野伊賀に嫁いで仙台に移り住む。夫は千二百石取りの上級武士。柔軟な知性をもち、真葛のよき理解者で妻に書くことを勧めたので、日記や紀行文、思い出の記などを書くが夫は彼女が四十九歳の時、江戸で急逝する。実家の家運も傾き孤独となった真葛は、それ迄考え抜いた人生万般におよぶ独自の思想を世に問おうと思いたち、「独考」と題した原稿を滝沢馬琴に送り講評を乞うが、儒教的教養の深い馬琴は彼女の才能は認めつつも、余りに自由な発想に「まことのみちをしらざりける」と強く批判。ついに世に出るに至らなかった。         

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