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プロフィール

高沢英子

Author:高沢英子
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 伊賀上野出身
 京都大学文学部フランス文学科卒業

 メイの会(本を読む会)代表。
 元「VIKING]「白描」詩誌「鳥」同人

著書:「アムゼルの啼く街」(1985年 芸立出版) 
「京の路地を歩く」 (2009年 未知谷)
   「審判の森」    (2015年 未知谷)     

共著: 韓日会話教本「金氏一家の日本旅行」(2007年韓国学士院)
 現在メールマガジン「オルタ」にエッセーなど寄稿。

 

東京都 千代田区在住


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メイ・サートンのとりこに
前回私が取り上げたアメリカの日記作家メイ・サートンの日記が日本に初めて紹介されたのは一九九一年だった。当時そろそろ人生の秋に差し掛かり、行く末どう生きてゆこうか悩んでいた私は、偶然書店で見つけた「独り居の日記」というタイトルに惹かれて拾い読み、高い教養に裏打ちされたしなやかな思考で、人生すべてをテーマにした豊かで深い内容に忽ちとりこになった。訳者の解説もすばらしく、以来私の座右の書として、今も測り知れない慰めと共感の歓びを与え続けてくれている。ご存知の方もあると思うが、作者がどんな人だったのか少しご紹介しよう。
メイ・サートンは一九一二年(明治四十五年)ベルギーに生まれ、第一次世界大戦でベルギーに侵攻してきたドイツ軍から逃れて四歳の時両親と共にアメリカに亡命した。父はベルギー人の科学史の学究、母はイギリス生まれの画家だった。
マサチューセッツ州ケンブリッジで知識階級の親達が連帯して作った私設小学校で創造力豊かな教師たちからユニークな初等教育を受けたことがのちの彼女の抜きんでた自立心と、思索の力を育てる基礎となる。十七歳で演劇活動を始めて挫折。パリやロンドンで暫らく暮らし、著名な文人達との交遊に恵まれたが、アメリカに戻り、一九三八年最初の詩集を出版以来多くの詩集や自伝的作品、小説などを発表したが、広く世に知られるには至らなかった。
 両親の死後、遺産でニューハンプシャーのネルソンの三十エーカー(約三万六千八百坪)の土地と老屋を買い、自然の中での孤独な日々の記録「夢見つつ深く植えよ」で脚光を浴び、六十歳を目前に自身を深く見つめ直した「独り居の日記」で独自のスタイルを確立する。
一九七二年以降メイン州の海辺の家に移り住み、病と闘いながら人間として生きることの意味を問い続け、老いることの素晴らしさを語り、「経験のあらゆる薪を燃やし尽くし」勇気を持って生きたあかしとしての日記や小説、詩集など幾多の作品を世に送り、一九九五年、八十三歳の命を閉じた。
 これからもこの「日記」に限らず、折に触れ読書によって心に刻まれる真実に生きる勇気と喜びについて、お話できればと思う。







                              
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草の戸随想 十一月号 237号           高沢英子
今年もとうとう神無月となった。先祖代々宮中の卜占をつかさどる神官の家柄に生まれたというのに、合理主義者だった兼好法師は、「十月を神無月と言いて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず(中略)この月,万の神達、大神宮に集まり給ふなど言う説あれども、その本説なし」と書いているが(二〇二段》、ともかく、暦では、十月四日は仲秋の名月、かつては家々ですすきを飾り、さんぼうに里芋や栗などを盛って月見をし、「芋名月」などと呼ばれていた。
戦前は、普通の家庭行事で、十月の終りか十一月初めのお月見は後の月または十三夜と呼んで、やはりお団子に、今度は大豆や、熟し始めた柿なども供えた。私の祖母なども、例年こうした日々をなくてならない行事のように守っていた。
子供の頃の我が家は二階建てではない旧式の大きな町家だったので、祖母は、中二階に作られていた子供部屋の窓から見える月を眺めたいからと、夜更けまで部屋に居座るのだった。
「寝待月」などといい、眠いのを我慢して付き合ったが、「秋の月は、限りなくめでたきものなり」と兼好法師がいい、(二百十二段)「とても月はかくこそあれとて、思い分かざらん人は、むげに心うかるべき事なり」なんて書いているのを読むと、農家育ちで、歌を詠むわけでもなく徒然草なども知らず、幸せでもなく老いた祖母が、年ごとのならわしだけは、こまめに遠慮がちにとり行っていた姿を、今更懐かしく思い出したりする。
今年の仲秋の名月は、関東では曇りがちの夜となり、時々小雨も降ったりしたが、遅くに雲の切れ目から姿を見せ、人の世をひっそりと照らしていた。あくる日からは、ますます不順な天候で、暑くなったり、にわかに冷え込んだりして下界は散々振り回され、月見どころではない日々が続き、とうとう冬支度を考えねばならない陽気となった。  
今年の十三夜は旧暦九月十三日で、十一月一日となるが、このところ宇宙の様相は不安定で、ほんとに見られるかどうかわからない。
十三夜と言えば、思い出されるのは樋口一葉の名作「十三夜」である。現代の日本では、もう見られない哀しい話として、昔語りになってしまったかに思えるけれども、ひとの心はそうたやすく変わるわけもなく、根っこのところでは、まだまだ、価値観の違いからくる差別意識や感性のずれにからめとられ、職場や地域ばかりか、家族のなかでも、不満や悲しみをくすぶらせていることは多いのではないだろうか。
 少なくとも 私の世代では、こうした人間関係のゆがみは、まだまだ生きていた。戦後は価値観もかなり変わり、世間では、表向き新しい社会関係が作られつつあったものの、地方では自称「明治人間」という教育勅語信奉者がまだまだ頑として存在した。息子たちをお国に、というより天皇陛下様に捧げたことは大きな名誉であり、女は家に従うことをいささかも疑っていない世代が健在だったのである。
最近でもその勢力は生き残っている。「森友」問題はそのいい例だが、関西でも特に旧弊な地方では、まだまだこうした時代錯誤の観念を頑なに握りしめている人たちがいるのを、私も傍近く見てきた。
戦後の一風景として面白いかもしれないし、当事者たちは懸命に生きていたわけで元気なうちに書いておきたいとも思ったが、。残念ながら、一葉のような才能の持ちあわせも、根性もなかったので、涙で袖を絞るようなお話にもできず、すっきりしないまま、もやもやと歳月を送ってしまった。
さて、前号の続きの話になるが、徒然草を読んでいると、世の仕組みが変わり、ひとびとの心も、それにつれて流され変わってきた、と歴史などでは論じられ、時代ごとに、老若それぞれの生活観の違いなどを嘆く声がしばしば聞かれるにもかかわらず、人の心というものは、実は案外変わらないらしいという発見をして、胸を衝かれることがある。
 たとえば百九十段を読んでみると、いきなり冒頭から
「妻(め)というものこそ、男の持つまじきものなれ」という主張にゆきあたる。さらに「『いつも独り住みにて』など聞くこそ、心にくけれ」と続き、独身生活をする男たちを、自身も含めて手放しで謳歌絶賛しているのである。あたかも現代、日本の都市に増えていると思われる独身男性のセリフを聴いているかのようで「それはどういうことですか」と思わず訊き返したくなるが、そのまま耳を傾けていると、「如何なる女を取り据えて相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるわざなり」と情け容赦もない。「如何なる女」というのは、これこれという女という紹介の言葉、と注解にある。原文のまま書き写すのが面白い、と思うが、あえて注解を参照して現代風に直すと、「こんな風にして、特別どうってこともない女をすばらしい女だと決め込んで、連れ添っているんだろうとかりに推測されるが、いい女なら、守り本尊みたいに大事にするのもいいが、それほどのものとも思えないんだから・・・」。と手厳しい。
さらにまた、行い済まして家政に長けた女は、これまたますます疎ましい。子供ができていつくしんでいるのもうっとうしい。男が亡くなったからといって尼になって菩提を弔いつつ老いたありさまなど見るも興覚めだ、などなど。「あなたは、いったい女に何か恨みでもあるんですか」と訊きたくなるような言い草で、今風に云うと痛烈な反社会的言説で徹底している。そして「どんな女でも朝夕顔を突き合わせていたら気に喰わないところも目についていやになるだろう、と、結局はお互い別々に暮らし、時々女のところを訪ねたりして、ときには泊ったりもして親しむのがいつまでも新鮮な気持ちでいられてよろしかろう」というのである。
経済事情が許せば女にとっても好都合な話かもしれないな、と思ったり、それなら前回触れた薫香にまつわる話に出て来る男女の仲なども、もしかしたら出家遁世以前の若き日の兼好法師みずからの体験かも、とおかしい。
甘いも辛いも人生。とはいえ、人間、自分自身をしっかり保って、心安らかに生きてゆくのは、いつの時代でも、なかなか難しいものらしい。


            
                    
                              

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