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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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草の戸随想 200号 2014年8月記 高沢英子
  中欧の旅④
   ポツダムへ

朝から蝉が鳴きしきっている。残された命の短さを惜しむかのように、木陰の樹の幹にぴったり身を寄せて終日歌いやめない。
例年にまさる豪雨と強風が列島を襲ったあと、再び戻ってきた酷暑のなかで、今年も八月十五日が巡ってきた。
昭和二十年、女学校三年生だった私たちは、上野の町はずれにそのころ新しく出来たダイヤモンド工場に動員され、芥子粒のように砕かれたダイヤモンド粒に、くる日も来る日も孔を開けていた。 
高速で回転する研磨機の先に貼り付けたダイヤの粒にむかって、激しく打ち続けるピストンにハンダで鋭い針を取り付け、先端を睨みながら、電動やすりで絶えず針先の角度を微妙に変えつつ尖らせていきながら、ダイヤモンドに美しい富士型の曲線を描く孔を開ける、というのが、女学生達の仕事だった。
何に使われるのか、という問いに、当時軍が必要としていた電波探知機の重要な部品だ、という説明がなされた。金属のうちで最も融点が高く、比較的大きな電気抵抗を持ち、鉄より硬いというタングステン線を、やはり鉱石としては最も硬いダイヤモンドに開けた孔に通すことで、線の太さを均一にするためだ、という。
電波探知機というのは、日本海軍が開発したレーダー波探知装置で、逆探とも呼ばれ、昭和十七年春ころからドイツではイギリスのレーダー波を探知しているらしいという技術情報がもたらされた為、日本軍隊から、敵レーダーの探知装置の開発要求がなされた。早速試作が始められ昭和十八年、完成した装置を戦艦「山城」で搭載実験を行った結果、直ちに量産に移った、という。翌年春までに約八百台作られ、終戦までには約二千五百台生産されたそうである。
潜水艦にも装着されたが、水に潜るという特殊性から性能確保には苦心したとか。昭和十九年末にはそれも生産台数は約二百台に達していたという。
ともあれ、このダイヤモンドの孔の直径は確か0・18ミリとか、そんな程度ではなかったか、うろ覚えで、手元に確かなメモもないので、サイズについては正確なことは言えない。
それらの作業はすべて、めいめい渡されていた顕微鏡を覗きながらやったことは憶えている。今でも両眼を開いたまま、片方の目で顕微鏡の映像をしっかり捉え、もう一方の眼で、メモしたりできるスキルは身についている。
今思うと、女学生達全員、そうした作業が出来るようにな迄さほど日にちがかからなかった。既に戦局はただならぬ様相を呈し少女といえども気持ちが集中していたのであろうか。不思議なほどの短時日で技術を身につけた。研修中の空いた時間には、シャベルを使ってせっせと工場内の空き地で、連日防空壕掘りをしていた。もっこを担いでの土運びも、すべて自分たちでやった。
だが、若さというのは怖いもので、防空壕掘りは、四、五人づつのグループに分かれてやっていたが、その間、私はグループの同級生に、せっせと、前もって読んできた小説の話をして聞かせていた。
小説といっても、もちろん真面目な文学作品などというしろものではなく、佐藤紅碌(サトウ・ハチロー、佐藤愛子の父)の「ああ玉杯に花うけて」だとか、その他昭和初期に雑誌「少年倶楽部」に連載されていた、ユーモア少年小説や野球漫画などの話で、毎日少しづつかいつまんで話すのが日課で、みんなそれを楽しみにして、土を掘りながら、腹を抱えて笑っていた。
たね本は、昭和十一年の夏、中学五年生のとき、ふとしたわずらいで死んでしまった父の弟の愛読書が、蔵の片隅に積んであった中から見つけたものだった。
私たちはアンネフランクと同い年だった。辛いことや苦しいことも多かったはずだし、空腹を抱えていたに違いないが、日記などもなく、あまり憶えていない。
家族について買出しにも行った。知り合いの農家で、冷たくあしらわれ、父に従って自転車で帰る道すがら、坂のところで、その日貰いうけた三本ばかりの細くしなびた葱が父の荷台に括りつけられてゆらゆら揺れているのを、見ながらペダルを踏んだ。平生、子供のようにわがままで、グルメだった父の小柄で痩せた背中と、三本の葱の取り合わせが、侘しくおかしく心を噛み、今も鮮明に脳裏に焼きついている。裏の洗濯干し場を掘り返して藷を植えたが、素人のかなしさ、蔓ばかり大きく伸びた。外倉の前の、土を固めたたたきを、勝手に唐鍬で掘り返し、防空壕らしいものを拵えて、本などを入れておいたが、湿ってしまって駄目になったりしたことなど、うろ覚えに思い出している。
戦局は、どんどん緊迫していた。上野の町の上空を、毎夜のようにB29が不気味な爆音を響かせて通るようになり、翌朝の新聞で、紀伊水道から大挙して北上した米軍機群が、大阪の町を焼き払った、という報道が伝えられ、工場も白昼、機銃掃射を浴びせられた。すでに工場内での作業に入っていた私たちも、トタン屋根の上を音立ててはじけ、穴を開けた銃弾に怯えたが幸い怪我はなかった。
工場の近辺に爆弾が投下され、その後空襲警報が鳴ると、女学生は外に避難することになったが、指定された避難先は、工場裏の竹薮であった。頭上を低空飛行で近づいてくる爆音に、生きた心地がしなかったのを思い出す。
私たちが掘った防空壕には、工場長以下、幹部達が収まっていたらしいが、本当にそうだったかどうかは確かではない。急ごしらえの仮設工場の暑熱の中で、バケツに入れて配られる氷片を齧りながら懸命に働いた。

八月十五日正午、私たちは工場内の広間に集められた。
あちらこちらの工舎から、女工さんたちや工員さんたちが、ぞくぞくと集まってきた。さほど広くない構内は、ぎっしりと埋まった。汗が首筋を流れた。ほどなく正面講壇に置かれたラジオから
「只今より重大な放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」というアナウンスが流れた。
場内がざわめいた。首に巻いた手拭を慌ててはずし、顔を見合わせる女工さんたち、正座も直立不動もなかった。続いてアナウンサーは緊張した硬い声で告げた
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも、御みずから大詔を宣らせたまう事になりました。これより、謹みて玉音をお送り申します」
私語がぴたりとやみ、静まりかえった場内に君が代が鳴り渡った。みんな目を伏せて、首を垂れた。一瞬の間をおいて、低く、くぐもった声が、ゆっくりと重々しく流れ始めた。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状ニ鑑ミ非常ノ措置ヲモッテ時局ヲ収拾セント欲シ・・」「え!」
「ココニ忠良ナル汝臣民ニ告グ」悲痛な調子の前置きが、途切れ途切れに耳に飛び込んできた。続いて
「朕ハ帝国政府ヲシテ・米・英・支・蘇四国ニ対シソノ共同宣言を受諾スル旨通告セシメタリ」「?」
「ソモソモ帝国臣民ノ康寧ヲ図リ・・サキニ米英二国ニ宣戦セルユエンモ・・皇祖皇宗ノ・・交戦既ニ四歳ヲケミシ・・最善ヲ尽クセルニ関ワラズ 戦局必ズシモ好転セズ・・我ニ利アラズ・・戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ倒レタル者ソノ遺族ニ思イヲ致セバ五体(五内)為ニ裂ク・・」
思わず吐息が出る。アラヒト神の筈のそのひとの嘆きは、あまりにも人間的だった。周りのみんな身動き一つせず聴いている。
「シカレドモ朕ハ時運ノ赴クトコロ堪エ難キヲ堪エシノビ難キヲ忍ビモッテ萬世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス・・神州ノ不滅ヲ信ジ・・任重ク道遠キヲ思イ・・総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ・・世界ノ進運ニ遅レザラン事ヲ期スベシ 汝臣民ソレヨク朕ガ意ヲ体セヨ」
詔勅の放送の終わりが告げられて君が代が再び流れ、ラジオのスイッチは切られた。
ふう!、体から力が抜け、胸が不意に緩んだ。途切れ途切れに詔勅のことばを拾い、すべてが終わったことが胸にずっしりと沁みわたった。ああ、とうとう、という思いが湧き起り、全身の力が抜けた。暫くは誰も動かない。
突然、工場長が壇上に飛び上がった。小柄でがっしりした体で握りこぶしを締め、陽灼した顔を、汗と涙でてらてら光らせて叫んだ。
「皆さん!どうか、お命を、このわたしに下さい!」
みんな茫然と黙っている。このあと彼が何を話したかは記憶にない。
やがて、工場長の興奮もどうやらおさまったらしく、わたしたちは外に出た。今日は仕事は取りやめです。各自自宅で待機してください、とのことで、帰宅することにした。
工舎の前の低い石垣に四,五人かたまって腰を掛け、泣きながら首にかけた手拭で涙を拭っている女工さんたちがいた。通りがかりに呼び止められた。
「戦争負けたんやと。あんたらはええわ。学校へ帰ったらええんやさかい、うちらはどうしたらええんや」
何も答えられず、黙ってうつむいたまま通り過ぎ、工場の門を出た。家に向かって歩いた。風もなく、どんよりした午後の町の通りに人影はなかった。
家の中はがらんとしていた。祖父は近在に疎開し、義母と幼い妹も、実家の村に疎開していた。この年、5月に生まれたばかりの妹は、さきの空襲の時、壕の中でひきつけを起こしたのだ。
机の上に号外があった。手にとって眺めていると、奥のほうから、祖母が着物を肌脱ぎした帷子姿で、よたよた出てきた
「お父さん、帰ってきたけどまた出て行った。喜子はまだガッコや」
「戦争終わったで。負けたんや」
「さいやてな」
「なにがさいやてなや」無性に腹が立って、号外を摑むと隣の部屋に入り、葦戸をパタンと閉めて、横になった。
アッツ島玉砕!、レイテ島玉砕!沖縄地上部隊全滅!広島、長崎巨大爆弾投下!負け続けていることは判っていた。
終わったんだ、何もかも!頭の中が空になり、天井を見つめているうちに、いつしか眠ってしまった。
夕方目を醒ました。じわじわと安堵感がこみ上げてきた。今夜からぐっすり眠れる。暗幕を張り、閉め切った台所の片隅の暗いガス灯の下で啜るすいとん汁と藷蔓ご飯でもかまわない。とにかく生きていられるんだ。

この日、日本政府が受諾した四ヵ国の共同宣言は、ドイツのかつての王家の保養地、ポツダムのツェツェーリン宮殿で、米英ソ三者会談で作成され、七月二十六日に日本政府に公示されたものだった。
通称「ポツダム宣言」と呼ばれるそれは、日本人の心に忘れる事の出来ない用語として刻み込まれた。以来、片時も忘れることのなかったポツダムという土地。私達にとって、今回の旅の主要な目的地であったそのポツダムへ、今日これから行く。ドイツソーセージの簡単な昼食を済ませ、バスに乗り込んだ。
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ハローゥイン

10月29日
北風が冷たい季節がやってきました。ハローゥインの季節です。ここ久が原でも我が家の10歳の孫の友達7人、池のほとりに集合し、めいめい趣向を凝らした仮装で練り歩き、お菓子を貰って廻りました。
 

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