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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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メイ.サートンの贈り物

まず、メイの会の誕生、おめでとうございます。
私はこの詩人作家、メイ.サートンを、初めて日本に翻訳で紹介したご縁で、メイの会発足のお祝いかたがた、一言ご挨拶させていただくことになりました。

 メイ.サートンは一九一二年にベルギーで生まれ、四歳のとき、両親とともにアメリカに亡命してまいりました。父親はハーヴァードで教え、科学史序説という大著を残した高名な学者でした。母親は絵を描き、デザイナーとして夫を助けています。メイは26歳で処女詩集を発表してから83歳の生涯を終えるまでに、五〇数冊の著作を残した多産な作家でした。高校時代に演劇のとりこになり、一七歳のとき、親に反抗して大学ゆきをとりやめ、女優修行にうちこみ、二〇代前半で自分自身の劇団を持ちます。しかし劇団維持の資金集めにさんざん苦しんだあげく劇団をあきらめ、著述家、詩人として生きる決意をかためたのでした。

一言に著述家といっても、メイのジャンルは可なり広く、小説、日記、回想記、におよび、それに膨大な詩作品があります。メイはそのいずれにも才能を持っていましたが、自分は本質的に詩人だと定義していました。
私はちょっとした偶然から、アメリカの友人から贈られたメイ.サートンの「独居の日記」を、みすず書房にご紹介したのがきっかけで、サートンの訳者として、その後十余年も彼女の作品にかかわることになりました。一二冊の作品の翻訳をお引き受けして始めたのですが、家庭の事情で、なかばしか果たすことはできませんでした。

それでも、サートンとの出会いは、わが生涯にとって非常に大きな意味を持っています。翻訳をしていたあいだにも、その後にも、サートンから与えられた栄養は無尽蔵といってよいくらいなのです。
それはたとえば、広く敬愛されている牧師さんやお坊様から、人生の危機にいただく聖者の知恵の言葉のようなものではないのです。
メイ.サートンが、かつての賢明な美少女から、行く手を阻むものは何一つない活力に燃えるテイーンエイジャーに、そして恋に酔い、恋を失っては絶望し、また立ち上がり、経験を調べつくしては新しい創作にとりかかる長い人生を生きてゆく過程で、よい書評を得て舞い上がると思うと、次の作品は無視されて失意の淵に沈む。自分の気性や能力への疑いにとらわれての、流砂に吸い込まれるような恐怖の一夜や、天上のものとしかいえない歓喜の瞬間を、できるだけつぶさに、正直に、精力的に書きとめることで、メイは人間とは何かを実にまざまざと教えてくれたのです。成功への野望や、一再ならずめぐまれた勝利以上に大きな失敗や、挫折や、たびたびの衝突を含む人間関係。それらの全てを生き通して、自分をも人をも人間として抱擁したサートンの素顔を知ることは、一読者としての私に、かぎりない慰藉と励ましを与えてくれました。

あるジャーナリストが、もう若くないサートンに「どんな人間として記憶されたいですか」と聞いたとき、彼女は「どこまでも人間的な人間として」と答えているとおりです。
またあるとき彼女は大學での講演会で「年をとるのは素晴らしいことです」といって聴衆を驚かせました。「なぜですか」と聞かれて「私は今ほど自分自身でありえたことがなかったからです」といっています。
さらに「ロバと詩人」という動物小説の中では「私から年齢を奪わないでください。働いてようやく手に入れたのですから」とロバに語らせてもいます。
こんな言葉を吐くほど「経験のあらゆる薪を燃やし尽くして」生きてきたという自負を持ちえたサートンを、私は賛嘆しないではいられないのです。
彼女の処女詩集に、批評家バジル.ド、セリンコートが与えた、サートンの核心に触れた言葉はこれを確認しています。「もしも彼女の詩篇が注目に値するとしたら、その底を流れ、それらを一つのものにしている経験の強烈さが、其の表現のための道具を鍛錬し、洗練するための、妥協を許さぬ決意を生んでいるからである。」

サートンの五〇冊にあまる著作の中から、もし私が一冊を選ぶことになったとしたら、一番に頭に浮かぶのは今年一五刷の出た「独り居の日記」です。両親の死後、天涯の孤児になったサートンは、その遺産を元に、四六歳にして生涯で初めて自分の家を所有することになりました。詩集、「雲、大陽、つる草」の書評への失望、愛の終わり、同性愛を告白したためにウエルズレイほか大學の職を追われるなど、一連の打撃で、サートンは失意の底にありました。ニューハンプシャーの独り暮らしは、家を畳んだ後、世間の思惑を忘れ、ひたすら自分の内部を見つめることで新しい出発をしようと言う決意の結果でした。
まったく未知の広大な土地で、都会育ちのサートンが草を抜き、畑を耕し、花を育てる喜びの発見や、庭と畑を手伝ってくれることになった質実剛健な農夫パーリーコールとの友情、家中を整理してくれるやさしくてたくましいミルドレッドとの交流が、サートンを救います。この牧歌的な生活が最初に紹介されたのは、みごとな回想記「夢見つつ深く植えよ」でした。これは素晴らしい人気作品になり読者の反響がひきも切らぬ有様でした。しかし読者からの反響がふえるにしたがい、この作品が作り上げたかにみえる“サートン神話’の虚構に気付き、彼女は次第に居心地が悪くなるのです。
“「夢見つつ深く植えよ」のおかげで、庭仕事をする友人がたくさんできた。けれど私はこの本が真実を伝えていないことに気づき始めている。ここでの生活にまつわる懊悩と怒りには、ほとんど触れられていないからだ。今こそ私は壁を突き破り、其のごつごつした深部、基盤そのものにまで触れたい。”(独り居の日記)

こうして一九七三年にサートン初のジャーナルとして発表された「独り居の日記」は、五八歳のサートンの一年間を記録したものです。批評家のキャロル.ハイルブランは、独り居の日記を、女性文学に於ける分水嶺だと評しました。
“「夢見つつ深く植えよ」の中で、サートンは意識して苛立ちや怒りを隠そうとしたのではなかった。それまでの、女性による自叙伝の伝統に従ったまでなのだ...
私が、「独り居の日記」を分水嶺と呼ぶのは、それまでに正直な自叙伝が書かれなかったためではなく、サートンがここでは、わざわざ怒りについて述べている点にある。なぜなら全ての禁忌の中でも、女にとって最大のタブーは、権力に対する願望と、自分の人生を自分で統制したいという願望と同時に、女が怒りを持つ事実を、公然と認めることだったのである。“ (キャロル.ハイルブラン)

独り居の日記のテーマはひろく、自然、芸術、愛、フェミニズム、同性愛、老年、生と死、友情、政治、社会問題など、詩人の生涯の関心事のほとんどを反映しています。しかし、この日記に反復されるもっとも重要なテーマは孤独であり、しかもそれは内面を充実させる、創造の時空としての孤独なのです。さらに、自分を発見させ、自己と他者を真のコミュニオンに導くものとしての孤独が語られるのであり、センチメンタルな孤独からはよほど遠く、きびしいものです。

「独り居の日記」は素晴らしいジャーナルで、さまざまな宝物が秘められています。私の友人にも年とともにこれが手放せない座右の書になったといわれる方がひとりならずいらっしゃいます。でも私にとっては、実はこの日記に劣らず愛着のある本がほかにもあるのです。「私は不死鳥を見た」という、サートンの幼年期から青春期の回想記がそれなのです。
これはまあ、何という楽しい本でしょう。サートンを読みたいと思われる方には、まず「独り居」と「不死鳥」の2冊をお勧めしたいと思います。後者は、メイの少女時代、思春期、青春時代の回想記であり、作家サートンの生い立ちの記でもあります。不死鳥と言うのはもともと、彼女の通ったボストンの実験教育校シェイデイヒルの創立者、アグネスホッキングの天才をさしてサートンが呼んだ言葉であり、彼女はこの学校で、桁外れの教師たちから桁外れの教育を受けます。オープンエアスクールと呼ばれたこの学校についてのメイの記述を少しだけでもご紹介いたしましょう。

「建物自体が型破りだった。街路樹に面した外側からは、細長い褐色の木造バラックと見えたが、内側は大きなガラス窓が続く。この窓は年中、たとえ氷点下でも開け放されていた。
、、、、冬場にはもちろん私たちは手袋をはめて字を書いたので、中には今でも、自分でも解読できない象形文字のような文字を書く級友もいる...私たちの衣服も長いウールの下着から始まって、いく枚ものセーターを重ね、前ボタンつきのグレイの長いセーターで止めをさしたが、これは校長の忠告でわざわざ4サイズ大きいものを買わされたので、現実にはオーバー代わりになった__実際に勉強するときには、もっと厚ぼったい繭に閉じ込められた__つまり、肩まで届く寝袋にくるまったのである。」

肉体の鍛錬のためにこの奇想天外な教育をした校長のアグネスホッキング女史は、精神の鍛錬のためにも独自の方法を持っていました。創造性と自発性を養うための理想教育を目的にしたこの学校では、詩が活動の中心とされ、校長自らが各クラスの詩の時間を担当したのです。サートンは書いています。

「アグネスホッキングは詩について語ったのではなく、子供たちに、詩の生命を生きることを教えた。たとえばある日、大ホールに集められた子供たちはアザラシになった。すでに寝袋に入っていたから、難しいことではなかった。」
そして子供たちはアザラシの詩を聞きながらアザラシを演じます。

ゆたりのたりと大波の
よせては返す波まくら
ちょっぴり尾ひれを動かせば
アクロバットも思うまま
フカもお前をさけてゆく
大海の腕に抱かれて
ひねもすを のたりと暮らせ

メイは言います。“私たちはごろごろと転がり、床はわずかにゆれた。ホッ
キング先生も、いつしかグレイの寝袋で床を泳ぐアザラシになっていた“と。
訳しながら私は、こんな学校で幼年期をすごしたかったと、何度思ったことでしょう。
イギリスの春も素敵な1章で、是非読んでいただきたいものです。彼女の青春時代には、T.S.エリオット同席したり、ヴァージニア.ウルフにお茶によばれたリ、ジュリアン.ハクスレー(オルダス.ハクスレーの兄)夫妻を初め、うら若い詩人を興奮させたイギリスの新しい友人との交流が活写されています。

サートンの作品には引用したくなる言葉がいくらでも散らばっています。これから、サートンの豊かさにふんだんに触れられるだろう皆さんに一つだけでも彼女の詩をご紹介したいのですが、何百編もある彼女の詩の中で、やはりここに選びたくなったのはこの詩でした。いつかあなたもメイのように「暗い混沌」に沈まれるときがあるかもしれません。そんなときには、この詩を思い出してください。そしてメイのさし出す鮮烈な水で、透明な活力を取戻してくださることを祈りながらご挨拶を終えたいと思います。

一杯の水
ここにあるのは 井戸から汲んだ一杯の水
舌にのせれば  石と木の根と 土と雨のあじわい
わが最上の宝もの  唯一の魔法
きらりと冷たく シャンパンよりも貴い
いつの日か 名も知らぬ人がこの家に立ち寄り
この水に癒されて 旅路を続けることもあろうか
いつかのわたしのように  暗い混沌に沈む誰かが。
コップ一杯の鮮烈な水を  飲み干したあのとき
にがい思いにまたもや   心を曇らせていた私に
透明な活力が 正気をかえしてくれたよう
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