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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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九月二十九日
 多摩河原の葦の穂が秋風になびき、草叢に蟲の音のすだく季節が、この年は突然戻ってきた。再びメイ・サートンの日記「回復まで」を読む。1978年のクリスマスにはじめられたこの日記は、三冊目。愛する女友達ジュディの老耄という悲しい現実に直面する辛い叙述で始まる。
 サートン66歳、ジュディ81歳?。ジュディは既に七年前から、老人ホームに住んでいるが、クリスマスをともに過ごそうと、サートンは迎えに行く。しかし、結果は?家族同然に慈しみあった友は、いまや「坂を転げるように衰えて」ゆき、「いっつしょにいても何の意味もない遠くへ去ってしまったことを悟らされる」・・・。
 
 サートンは翌年六月には、乳がんのため、全摘手術を受けている。「回復まで」という表題が、当然のことながら、肉体的な意味ばかりではないことを、時に応じ、深く感応しつつ読みすすめていきたい。

 
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九月十七日
 この週、水、木と、惜しくも軽井沢FMを聞き逃してしまった私は、金曜日こそ、と思って、その朝、PCの前で7時50分になるのを待った。
 そして、竹前さんの、いつもの生気に満ちたスタートの声とともに始まった放送。今週は私の1冊の週だった、のである。紹介されていたのは、竹前さんも企画に参画されたすばらしい一冊の本、「夢のあとで」。それは、ひとりの女性音楽家、古沢淑子の足跡を辿った書だった。
 実は、私は既に七月始め、お知り合いになって間もない竹前さんから、この貴重なご本を贈っていただき、一気に読んでいた。驚きと感動と、今も続いている並外れた高貴な余韻、おそらく生涯忘れられない印象を私の脳裏に刻み付けたこの稀有な女性は、竹前文美子さんの声楽の師であるばかりでなく、生涯に亘たる生きた規範であるに違いない。金曜日最終の放送では、激動の大戦のあとさきを、フランスで耐え抜いた古沢淑子の波乱に満ちた体験と、その後1942年、いまだ荒廃した日本に帰国してから、その才能と研鑽の凡てを注いで後進指導に当たられた20年の歳月が簡潔に語られ、最後に彼女の不羈の生き方の指針がまとめられた。
 生きること。たのしむこと。美しくおいしく生きる。など女性にとって胸の躍るような項目の中で、とりわけ心に響いたのは、持てる能力に関して、深く深くほんものであること。という言葉だった。おそらくこの信念のもとに古沢淑子師は、みずからを鍛え、かつその弟子たちを鍛えたのに違いない、と私は今更、息を呑んだのである。
僅か10分の放送と考えられない充実した内容であった。
 私にとっても、この本の内容に関しては、まだまだ言いたいことは一杯あるけれども、とにかく、まずこの本を読んでみて下さい、と言い添えるしかない。2001年、二月十一日、こよなく愛したフランス、エヴィールの地で晩年をすごしたのち世を去った不世出のひとりの日本女性。ご冥福を心から祈るばかりである。

魂の創造

九月十六日
 詩の朗読のあと、吉川が一つの疑問を提示した。「独り居の日記」十二月二日付けの、20世紀前半のフランスのカトリック司祭、ティヤール・ド・シャルダンの著書「神のくに」よりの長い引用のあと、魂について考察を始めるくだりで、
 
☆[われわれは、霊魂を創造していると信じられるとき、始めて人生に意味を見出すことができる]というサートン の言葉が続くが、<霊魂を創造する>というのは、いったいどういう意味なのだろう、というのである。
 
 原著でもこの部分はIt is only when we can believe that we are creatinng the soul that life has any meaninng,と簡潔に記されているだけだが、その後に続く「しかしそれをいったん信じたならー私はそう信じるし、常にそう信じてjきたのだがーわたしたちの行為で意味をもたぬものはないし、私たちの苦しみで、創造の種を宿さぬものはない」という言葉は、この際併せて考察しなければならない。
 そのためには翻って、ティヤール・ド・シャルダンからの引用を今一度読みかえし、彼とその1派の哲学の片鱗を、意識下におく必要もある。
 このきわめてヨーロッパ的で、カトリック神学の伝統の、霊魂の創造行為なる発想の歴史は古く、さらに、近代それに進化の思想を結び付けるに至っては、西欧のキリスト教思想にいまだ理解の浅い日本人にとっては、馴染みにくいものに違いない。しかし、サートンの魂に根深く浸透しているかに思えるこれらの思想を、この機会にじっくり考察してみるのは、決して意味のないことではない。むしろ大切なポイントといえるかも知れない。

九月十二日

再び日記「回復まで」より、今日の日付の記述を読む。
 6月に乳がんの手術を受け、身も心も回復期にあったサートン。静かに運命を受け入れ、終わりの無窮のときが近づいていることを予感しつつ、なお創作の意欲に燃え、人間関係に悩み、読書と思索と友人たちとの会話を通して、よりよい生をめざす日々である。
 暑さも漸く下火となり、草むらに秋の蟲のすだく音を聴くことができるようになった。秋の夜長、思索のときでもある。同じ日付の日記を読んでみることにし、彼女が引用している文章と、彼女のコメントを、転載することにする。
 
「アンリ・J・Mヌーエン(註サンパウロの聖職者。詳細不明)の「孤独から」という説教をまとめた小さな本を読んでいると、こんな部分に出会った。
 ーひとりになれる場所を持たなければ、自分の生が危険にさらされるということを、わたしたちはどこかでわか  っている。沈黙がなければ言葉は意味を失うこと、聴く耳がなければ話す言葉は心を癒すものにはならないこ  と、距離をとらなければ親密さは人を救いはしないことを、どこかでわかっている。孤独な場所をもたなけれ  ば、わたしたちの行為はただちにむなしい身振りに終わることをどこかでわかっている。沈黙と言葉、引くこ  ととかかわること、距離と親密さ、孤独と共同生活のあいだの注意深いバランスは、キリスト者の生活の基礎  をつくるものである。ー
 それは芸術家の生活についても言え、バランスを見つけることは、終わりなき葛藤だ。(中略)
 表現されないものは存在しない、というのはおそらく真実ではないことをかろうじてだけれど理解するようにも なった。もちろんこれは作家の信念として。言葉とは、彼または彼女が拠って生きるものであり、その全人生は おのれが信じ、また感じることを言葉で表現する闘いである。」
 
 サートンの引用とコメントはさらに続く。次の言葉は、キリスト教説教者としてのヌーエンの発言ではあるが、たとえ、特定の信仰を持たなくとも、真に孤独のなかで瞑想を重ねるとき、ひとの心が成熟してゆく課程を示すものとして、注目に価する言葉であると思うので、書き写しておこう。
 
ー孤独の中で、われわれは所有欲というむなしい仮面をゆっくり脱ぐことができ、われわれ自身の中心にいるのはかちとって得たものではなく、あたえられたものであることを発見する・・・所有することより、生きてあることのほうが重要であり、努力の結果よりもわれわれの存在自体に価値があると発見するのは、この孤独のなかでだ。人生は、他者に侵入されまいとして防御するわが身だけのものではなく、他者とともに分かち合う贈り物であると発見するのも、この孤独のなかでだろう。ー

今夜はこの辺で。

 

九月八日

軽井沢の風
 今日は軽井沢FMでは、サートンの熱烈なファン、声楽家竹前文美子さんの放送日。毎週水曜日の朝から金曜日まで、7時50分から、小鳥の声とともに、早朝の軽井沢から爽やかな風と音楽に乗せて届けられる、本の話、美味しいものの紹介。佐藤あさ子さんの植物の話、を楽しみに聴く。
 今朝はシーズンの鮎について、ゲストの鮎割烹料理店「追い星」の御当主のお話を聴く。そろそろ落ち鮎とマツタケのシーズン。しかし、日本もこのところ年々水温が上がり、いっぽう、天然の鮎、やまめ、いわななどに
琵琶湖あたりから広がってきたバクテリアによる冷水病が流行し、日本古来の天然魚の数も減少の一途を辿っている、という淋しいお話も。
 自然を愛し、日本を愛していたサートンなら、なんというだろう。
 漸く秋風が立ち始め、多摩河原では群生する芦が風になびいている。 

九月六日

メイ・サートンの言葉
 サートンの言葉は一つ一つに、深い意味と輝きがあり、その都度、心を打たれ、新たに立ち上がる力を与えられるのです。とくに女性にとって、これほど深い愛と誠実さと優しさで、慰めを与える人は稀有の存在です。
 いずれ、語録を編みたいと考えていますが、そのための準備として、少しずつ、意味のあることばをご紹介してゆこうと思います。ただし、順不同で、思いつくままに、共感してメモしたものから。ですから今回書き出した言葉が、最高というわけではありません。
 
《日記「回復まで」より》 一九七八年 六十六歳
十二月二十八日
 〇わたしにとって、癒しの役をしてくれるのはいつも詩。
一月十二日。
 〇孤独がなにかを生み出しうる時期は人生に二度あり、二十歳のころと六十歳を過ぎてからだろう。しかしその二 度のうちで孤独が自分の選択であるのは前者だけ。

 〇どのようにして人は自分のアイデンテイティを見出すのだろう。私の答えは作品を通して、又恋をとおしてであ り、・・・・・。
二月十三日
 〇だれが女性たちの人生をくまなく書きおおせているだろうか。
(わたしは一般化は嫌い)
  ・・・男性の手になる文学作品では、女性たちががすぐれた人間として描かれることは滅多にない。こうした 一般傾向にあって例外としてヘンリージェイムスが思い浮かぶ。
 
   ж註 この年一九七九年、サートンは乳がん手術のため 
       六月八日ヨークの病院に入院。同月十八日手術(左胸)
              二十七日退院。、という経験をしています。
七月一日
 〇肉体が聖なるものであることを忘れては危険だ。

《「独り居の日記」より》1973年発表 五十八歳

10月11日 
  私には考える時間がある。それこそ大きな、いや最大の贅沢というものだ。
 
11月11日
  孤独とは、存在するための空間を持つことである。
       孤独 は 寂しい とは全く別の次元の言葉だと、サートンは繰り返し言っている。

3月18日
 〇万事について、スピードが上がり、忙しなくなったから、・・・私たちの速度を緩め、忍耐を強いるものすべて、自然の緩慢な   
 サイクルの中に私たちを連れ戻すもののすべてが助けになる。だからこそ、庭作りは恩寵の道具なのである。
十二月三十一日
 スタイルが精神の気品を表すように、やさしさは心の気品であるーと昨夜は眠れぬままにそう決めた。両方とも人の本質にかかわると思う.理性の質、感情の質に。
 わたしにとって、不安で苦痛だった1年の最後の日、明日の夜明けが待ち遠しく、日が長くなるにつれて、新たな、生への歩みが感じられるように、と願う。季節のめぐる中で、最も暗い時間に「新年」を迎えるというのは神秘的だけれど、不思議ではない。個人的な闇に沈んでいる時、打ち勝たねばならない苦しみがあるとき、あらゆる困難にもめげずみずからを再生しなければならないとき、ただ生き延びてゆくために必要な精神力は、春に凍土の下から球根が芽を伸ばす力と同じくらい強靭で、ひとたびそれが克服されれば、新たなエネルギー、創造に向かうエネルギーが溢れ出てくる。事実、この夏以来何ヶ月も心にかかっていた短い小説を、今朝から書きはじめた。

〇使い古された快適な椅子が一つもないような家には魂がない。
 サートンの初等教育の八年間は、マサチユーセッツ州ケンブリッジに1915年創設されたシェィデ・ヒル・スクール、別名オープン・エア・スクールとよばれたいわゆる連帯方式による小さな私設学校に委ねられた。幼いメイ・サートンはここに1917年、5歳で入学する。幸運にも、と自ら書いているように、学校生活はユニークで創造的なものだった。彼女の自己形成の旅は、ここから始まった、と言えるだろう。
 
 この学校の教育方針その他のユニークさは、到底ひとくちではいえない。回想文の中から、具体的に生き生き描かれた個々のケースを丁寧に取り出し、一つ一つ味わいつつ、じっくり考えて見たいと思う。
 読まれる方はぜひ「私は不死鳥を見た」のなかの同名の章を昧読し、人間を教育する事の重要さを、そこで行われたいささか過激ともいえる冒険の数々を、今一度子供の原点に立って、見詰めなおし、参考にして欲しいと思う。
メイサートン)のプロフィール。
 1912年、ベルギーに生れる。4歳のとき両親とともにアメリカに亡命。マサチューセッツ州、ケンブリッジで育つ。父は著名な科学史の学究として、ハーバードで教え、イギリス人の母は画家、デザイナーでもあった。
若くして劇団を主宰するが、やがて、1938年最初の詩集を出してより、著作に専念。多くの詩集、小説や自伝的作品、日記、を発表。
 1973年、両親の遺産をもとにニューハンプシャー、ネルソンに30エーカーの土地と老屋を買って住み、発表した「独り居の日記」で、脚光を浴びる。やがて、メイン州、ヨークの海辺の家に移り住み、83歳で死ぬまで、次々と20冊に及ぶ作品を発表。女であること、芸術家であること、の自覚をもって、女にとっての創造の源泉を探り、真実に生きることの意味を問い続け、自分自身である事の勇気を語り続ける著作は、多くの読者を得、「アメリカの国宝」とまで絶賛されているという。1995年、ヨークの病院で死去。

 翻訳によって彼女の作品を最初に日本に紹介したのはアメリカ在住の武田尚子さんで、「サートンによって世界を見る新鮮な目を与えられ、生きる勇気を与えられるに違いない多数の読者の存在することを、確信している」とあとがきに書いておられるが、事実、日本語版「独り居の日記」は、その後も地下水脈のように愛読者が絶えず、15版を重ねているという。私がこの本と始めて出会ったのは1991年の暮ごろ、出版の約1ヵ月後、大阪、梅田の旭屋書店だった。ふと手に取り、読んでみてすぐ購入した。渇いた者が水を飲むように・・。以来この書は私の座右の書となっている。

原題は「I KNEW A PHOENIX]1959年、ニューヨークで出版。題名はイェーツの詩からとられ、1954年から56年にかけてニューヨーカー誌に連載された自伝のためのスケッチ、をもとに書き下ろされた。著者40代の最初のエッセー。
 ヨーロッパでの生い立ち、環境、アメリカ亡命後の教育、そしてその青春から作家としての出発までの真実が、豊かな感受性をたたえた詩的描写で書かれている。
 
 日本では「私は不死鳥を見た」武田尚子訳でみすず書房から1998年出版された。作家としてのサートンの形成を知る上で欠かせない1冊。
 
 最終章「イギリスの春」で、サートンが出会う貴重な知人友人たち。中でも、通称コットと呼ばれるユダヤ系ロシア人との交遊がその後のサートンの人生を決定したといっても過言ではないだろう。サートンは書いている。
『コットは、まやかしもの、偽りの言葉、いわゆる「文学的」なるものに対する誤りのない目をもっていて、そうしたものは微塵も受け付けなかった。しかし重大なもの、長続きするもの、真実の固い核にたいしても誤りのない目をもっていた。大量の批判に裏打ちされていたとはいえ、長い目で見た私にたいする彼の信念は、足元の揺るぎない岩盤を踏むのにも似ていた』
 『そのとき私は自分が作家としての可能性をついに開花できるまでには、長い歳月、残りの人生すべてが必要だろうという事実を直視しはじめたのだっつた』
 以来、サートンはこれを自己の中心核にすえ、長い人生を走り続け、ついに完走したのである。
 
 

 サートンの会は、長年「独り居の日記」を始め、サートンの作品をひそかに愛読してきた高沢が、サートンの老いても気概を失わず、虚飾をもたず、強い意志で、人間として、女性として真実に生きようとした姿。鍛え抜かれた詩的哲学的表現で、赤裸々に書きしるした日記の質の高さに、教えられる事の多いことを痛感し、何とかこれを、もっと日本の女性たちに紹介したいと思い、友人に声をかけて発足させた。訳者の武田さんにもメールしたところ、早速下記のようなお返事が届き、感激している。素晴らしい内容なので、転載させていただくことにした


貴メールをうれしく拝読いたしました。
 独り居の日記が、今も多くの方に読み継がれていることは、いつも私に勇気を与えてくれます。
お手紙をせめて1ヵ月半前にいただいていれば、私の逗留先である国際文化会館かどこかで。親しくお会いできたかもしれないのにと、ちょっと残念でした。4月24日から、5月11日まで例年の日本への里帰りをしていたのです。

 そしてこの旅では思いがけなく、サートンにまつわる二つの忘れがたいできごとがありました。その一つは、友人の声楽家の竹前文美子さんが、20何年にわたって介護なさった母上を昨年101歳で喪われて、30年ぶりの復帰コンサートをなさった4月29日のことでした。前触れもなく私をお客様に紹介してくださり、お母様のお世話をしながら年をかさねてゆく自分をみつめながら、独り居の日記がどんなに大きな激励であり、慰めであったかを、200人の聴衆を前にして語られたあと、この本は彼女のバイブルだと結ばれたのです。今住んでいられる軽井沢ちかくにある高野辰之き記念館での行事でした。高野辰之さんは、昭和一桁の私たちに親しい、朧月夜、ふるさとほか数かずの懐かしい詩を書かれた土地の人なのでした。
 
もう一つは、ある高齢の友人のお見舞いに行ったときのことです。彼は咽頭ガンで5年間も、口からものを食べられないまま寝ています。奥さんが、目をつぶっていても、お話しをしなくとも、意識は非常にはっきりしていて何でも分かるのだから、どんどんお話ししてください。といわれるのですが、何しろ20年もお会いしたいてない方から、おそらくお別れのご挨拶をしたいということだったのでしょう、奥さんのお電話でお会いしにゆきました。両眼は閉じられたまま、言葉はほとんど出せないといわれていたので、何のお話をしようかと考えた挙句、サートンの詩集、一日一日が旅だからと、ネコの紳士の物語を持ってゆきました。それが理解おできになるかどうかもわからないまま、とにかく私の訳した詩集です。すこし読んでみましょうかといいますと、[ああ]と小さい声で答えられました。まず冒頭の[いっぱいの水]を読みますと、片方の目がぱっちり開きました。[もう一つお読みしていいでしょうか?]と聞きますと[ああ]とはっきり言われました。私の大好きなインデアンの踊りを読みました。すると、両方の目が開いてしまったのです!私は感動しました。、そして、もう一つだけ聞いてくださる?といいますと[ああ、ああ]とはっきりいわれるので、新しい地形を読みました。一日一日が旅だから・家は私の奥の細道・からの三れんは、聞いてくださっている彼の心を肌に感じる思いで、思わず涙が出てしまいました。本当は、85歳の彼に[80歳を迎える]を聞いていただきたかったのですが、あまりにも切実すぎて、私自身がよみとおせないかもしれないと、避けたのでした。
病人の顔は紅潮して、なんだか若くなったみたいです。後刻宿に奥さんから[夫は、今日は素晴らしい日だった]といっています。ありがとうございました。」とお電話がありました。 末期にちかい人の魂をも動かすことのできる詩というものの力を深く感じました。忘れることのできない一日でした。

サートンの会をおつくりになられたそうで、おめでとうございます。もちろん悦んで会報を読ませていただきます。貴方のお仕事が順調に伸びてゆきますよう、アメリカからチアをさし上げます。お友達にもどうぞ宜しく。武田尚子(Naoko Takeda Yrin)


第一回で決めたことは
〇当分月2回。午前十一時から2時半まで、テキストを読む。(軽食を間に挟む)
〇会報発行。季刊とし九月頃をめどに第一号発行。内容は未定。


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