大きい文字9月12日、久しぶりに千代田区の循環バス「かざくるま」で神田の学士会館へ行ってみました。自室にいると、どうも気が散って何事もはかどりません。おまけに暑さは少しも収まらず、狭い部屋でうだっているよりと、9時過ぎ部屋をあとに。10時過ぎ神田錦町停留所で降り、ぶらぶら歩いて、錦町2丁目?のちょっとしたスペースを利用したスクウエアに植えられているショウジョウノムラという銘つき紅葉の臙脂色の繊細な葉を観賞し、並んでいるウスキ木犀とやら、クロガネモチとやら、ヤマボウシというたくましげな樹につけた名札を見て、片隅の小池で泳いでいる緋鯉に挨拶したりして、博報堂の前を通ると、もう目の先が学士会館です。
ここにくるのはしばらくぶりでしたが、1階の談話室は誰もいないでひっそりしています。しめしめ、と思って窓際に席を取り、アマゾンを通じて書店に注文した西田幾多郎先生の「善の研究』を読むことに。、なんとなく
しみじみ学生時代近くに住みながら、この本を読もうとしなかったことを反省しました。大学の近くに「哲学の道「」とやらもあり
なんとなく気がすすまなかったようなわけでした。何しろ超生意気でしたから・・・それにしても、その2,3年前、文学部の哲学科で殺人事件があり、女子学生が同学部の学生に殺されたりしたこともありました。そのとき聞きかじった事件の解説めいた文辞を
のちに高橋たか子に教え、彼女はそれを自作の小説「誘惑者」に書き入れています。自殺ほう助の小説でしたが、計画を練る部屋が、また私が当時止宿していた下宿の部屋そっくりという次第でした。長く生きると、ふとしたことにも、妙なしがらみがまつわりつくことがしばしばあります。
西田哲学の説く「純粋経験」はあらゆる芸術創作、文学においても勿論大切な視点を、示唆していると感じられます。そして、これも西田哲学の大きな特徴ですが、哲学を宗教と結びつける接点をあえて論じているところに大きな特徴があると知りました。これはカントなどのドイツ観念論から1歩進んだフィフテが提唱した論理を引き継いだものらしいことも知りました。博覧強記の西田幾多郎先生はスピノザからデカルト、さらにベルグソンなども精読しておられたようです。
物を書く視点に、「純粋経験」を第一にめざすということは、非常に重要です。イタリアの作家ナターリア・ゲンズぶるぐなど、これを目指した手法をかなり駆使しているのではないかと思っています。ともあれ今は西田哲学と、神曲天国篇、草花写生、砂漠の孤高の画家ジョージア・オキーフの作品の美しさに見とれながら、残暑をやり過ごして位と思っています。