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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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草の戸随想六月第251号    神田祭                
 寒暖の定まらない陽気がつづき、桜も散り果てた東京では、はや街路樹が、いっせいに早緑いろの芽をふき、晴れた日には広い通りに陽光が眩しく輝くようになった。
夕方、買い物帰りに通りかかったビルの一階の一郭に、白いテントが張り巡らされ、電灯の下に、金色の翼をひろげた鳳凰をてっぺんに飾り付けた小型のきらびやかな神輿が安置され、二,三人の町内の人たちが、動き回っているのを見かけて、思わず足を止めた。 
神興の屋根から岩本町一丁目という名称を印した細い布が垂らされ、かたわらに、大きな和太鼓が置かれている。
まもなく、千代田区と中央区の一〇八ヶ町が参加する神田明神の祭が始まるのである。江戸のころから、神田祭は、日枝神社と交替に一年おきに開催され、今年は二年ぶりの祭というので、待ちかねている人も多く、町内でも力を入れているらしい。
四隅を反らせた黒い漆塗りのきらびやかな鳳輦神輿は、真新しい感じだが、造られた年をたづねると昭和のはじめという。
「ぴかぴかですね」と感嘆すると、3日がかりで磨いたんだよ」と嬉しそうに答えた。
私が住んでいる隣の岩本町二丁目は、旧名称は大和町で、足を伸ばして、準備会場になっている広場に行ってみた。大勢の世話役が集まって、こちらはまだ太鼓の準備中だった。神輿の宮入は翌々日、十一日の土曜日という。
金曜日の午後、いつものように談話室で、二,三人の常連さんとコーヒーを飲んでいると、日ごろから活動的なYさんが「神田祭」の美しい冊子を持って入ってきて、ひとしきり話題が盛り上がった。,
 十一日宮入の朝、東神田の靖国通りの交差点で数台の神輿が集結していた。ここから神田明神までは、せいぜい2キロあるなしの距離だ。女も、男も、老いも若きも、それぞれ襟に町名を染めつけた紺や灰色や海老茶の法被とゴム底の白足袋姿で御輿を担ぐ態勢で順番待ちをしていた。
空は晴れ渡り、申し分のないお祭り日和で、まもなく肚の底に響くような太鼓とともに、掛け声勇ましく、町内ごとに順々に明神様に向かって進んでいった。
「神輿をかついでる人たちの中に、先祖代々江戸時代から住んでる家の人はほとんどいないんだよね」
 見物人のなかから、そういう話声も聞こえてきて、東京という町の性格も浮き彫りになる。
見物人たちのほとんど、かくいう私もその一人だが、ルーツは江戸ではなく、他の地方と思う。近ごろめっきり増えてきた外国人さえも混じっている。
明神の祭神は大国主命と少彦名の命、平将門。とか。「令和天皇御即位記念」と記された白い布札が神輿の屋根から下げられ、ひらひら揺れている。もう一方の角からは「平将門の御神霊」の布切れ。
「え、敵同士では?」
などと、むずかしいことを言ってはならない。英雄の魂はすべて神として鎮めるのがこの国の習わしなのだから。それは古来からの民族のこころがけで、理屈など棚上げして、尊敬する人ならば、神にして祭りあげるのが日本人の魂鎮め信仰。
藤村の「夜明け前」でも、かねて平田神学に傾倒した主人公の青山半蔵が、同門の友と、本居宣長、賀茂真淵、荷田春満、平田篤胤の国学者四人を祀る神社「本学神社」(今も残っている)を、伊那谷の山吹村に建てる企てに、胸躍らせるくだりがある。
そんなことを考えながら、祭りの賑わいを眺め、神輿をかついでゆく人たちの、子供のように屈託のない笑顔を見ているうちに、不思議なことに、わたしもなんとなく楽しい気分になってきた。人間の脳味噌は、実に多様な働きをする反面、感情そのものは単純なものらしい。
祭りの行事の一環として私が見たかったのは、十四日火曜夜、神田明神の社殿で開催される金剛流主演の薪能だった。しかも演目は「鞍馬天狗」と「鉄輪」である。気がつくのが遅くて、チケットも手に入らず、結局取りやめたが、残念で後悔している。金剛流能は、他流と違い、唯一京都を活動拠点にしていて、わたしはかつて泉州に住んでいた頃、二人の子供と岸和田市で、仕舞と謡を習っていた。
子供のころは、伊賀で父に連れられ、妹と二人忍町の禅宗山渓寺で、大阪から来る観世の師匠に稽古をつけて貰っていた。どちらも身につかなかったのは残念だが、お寺というのは、ひろい座敷を持っているので、稽古には好都合らしい。

泉州での金剛の流派の稽古も、円成寺という大きな格式の高いお寺で、年輩の女性師匠はそのお寺の跡継ぎ娘で、いわゆる家付きの内裏(だいこく)さんだった。人柄も芸も抜きんでた立派な人で、金剛流では、女性としては珍しい格式高い資格を有しておられる、とよそながら伺っていた。ご自分では、そんなことはおくびにも出されなかったが、子どもたちにも、しっかり稽古をつけて下さり、わたしの会った泉州人のなかでは,別格の、人格識見ともにすぐれた教養を備えた女性だった。京都にある金剛流家元の舞台でも、仕舞を披露されたが、女性にしては上背があり恰幅よく、舞姿は堂々とした風格をそなえ、内面的な表現力も豊かで感動した。子供たちもまた金剛の舞台で仕舞を披露させてもらい、いい思い出になった。  
 だが間もなく伊賀で。父と妹が同じ年に相次いで他界し、一人とり残された継母が神経を病み、わたしと子供たちが、伊賀に暫らく帰ることになって稽古は中断した。そして、そのあいだに、師匠はいまだそれほどのお年でもなかったのに、突然心臓発作で亡くなられた。でも、師に教わった金剛能の魅力は、いまだにわたしの心を捉えて離さない。
今年の薪能は京都が舞台だし「鉄輪」は、かつてこの芭蕉伊賀誌上でも取り上げたことがある。その頃私は四條通りから一筋下がった綾小路に住んでいたが、近くに「鉄輪の井戸」として注連縄などで祀られている井戸もあったことを書いている。物語の哀れさと凄さが心に沁みて忘れがたい謡曲だ。
愛する夫が他の女に心を移したことから嫉妬に燃えた京の女は、ついには鬼になって憎い男と女を取り殺さんと陰陽師に云われるままに、赤い衣を身にまとい、頬に丹を塗り、鉄輪の脚に火を灯して頭に戴くという凄艶な姿で―草深き市原野辺の露分けて月遅き夜の鞍馬川ー、貴船の宮に詣でる「我は貴船の川瀬の蛍火。頭に戴く鉄輪の足の焔の紅き鬼」と楽の音と共に謡いつつ舞い狂うが、明神の神通力に祈り伏せられ、声のみ残して消えてゆくのである。
夜の明神の境内で、薪の焔に照らされて演じられる人と神との息もつかせぬ一部始終をできればぜひ見ておきたかった。
夜の薪能奉納で祭はいちおう終わりを告げ、町はいつもの表情をとり戻し、今朝は久しぶりの雨が歩道を濡らしている。
 
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メイ・サートンのとりこに
前回私が取り上げたアメリカの日記作家メイ・サートンの日記が日本に初めて紹介されたのは一九九一年だった。当時そろそろ人生の秋に差し掛かり、行く末どう生きてゆこうか悩んでいた私は、偶然書店で見つけた「独り居の日記」というタイトルに惹かれて拾い読み、高い教養に裏打ちされたしなやかな思考で、人生すべてをテーマにした豊かで深い内容に忽ちとりこになった。訳者の解説もすばらしく、以来私の座右の書として、今も測り知れない慰めと共感の歓びを与え続けてくれている。ご存知の方もあると思うが、作者がどんな人だったのか少しご紹介しよう。
メイ・サートンは一九一二年(明治四十五年)ベルギーに生まれ、第一次世界大戦でベルギーに侵攻してきたドイツ軍から逃れて四歳の時両親と共にアメリカに亡命した。父はベルギー人の科学史の学究、母はイギリス生まれの画家だった。
マサチューセッツ州ケンブリッジで知識階級の親達が連帯して作った私設小学校で創造力豊かな教師たちからユニークな初等教育を受けたことがのちの彼女の抜きんでた自立心と、思索の力を育てる基礎となる。十七歳で演劇活動を始めて挫折。パリやロンドンで暫らく暮らし、著名な文人達との交遊に恵まれたが、アメリカに戻り、一九三八年最初の詩集を出版以来多くの詩集や自伝的作品、小説などを発表したが、広く世に知られるには至らなかった。
 両親の死後、遺産でニューハンプシャーのネルソンの三十エーカー(約三万六千八百坪)の土地と老屋を買い、自然の中での孤独な日々の記録「夢見つつ深く植えよ」で脚光を浴び、六十歳を目前に自身を深く見つめ直した「独り居の日記」で独自のスタイルを確立する。
一九七二年以降メイン州の海辺の家に移り住み、病と闘いながら人間として生きることの意味を問い続け、老いることの素晴らしさを語り、「経験のあらゆる薪を燃やし尽くし」勇気を持って生きたあかしとしての日記や小説、詩集など幾多の作品を世に送り、一九九五年、八十三歳の命を閉じた。
 これからもこの「日記」に限らず、折に触れ読書によって心に刻まれる真実に生きる勇気と喜びについて、お話できればと思う。







                              
このところ猛暑が続いていますが、7月22日メイの会読書会を持ちました。サートンの日記は7月⒑日から読みました。
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 暫らくご無沙汰してしまいましたが、今月からまた読書会を再開します。何人くらいお越しになるか未定ですが、
またご報告させていただきます。
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昨年春の旅の写真ですが・・・。
十二月六日
 秋の読書会は九月二十四日から始めました。出席者は吉川佐知子、沖森佐紀子、高橋和子、鏡政子、高沢英子の5名でした。会場は久が原の多目的室で、残暑はまだ厳しく、大きく取られた広い窓からは、庭の緑がまぶしく輝いている午後のひと時、アメリカのニューハンプシャー州ネルソンの30エーカーの敷地に立つ古い家で独り過ごす詩人メイ・サートンの日記は2月8日、長い冬がようやく去りつつある晴れた日、久しぶりに友を迎え、暖炉の傍でのお茶のあと、野の散歩に心弾ませる記述から始まりました。シジュウカラが春の歌を歌い、丘を見晴るかす広い農場では、牧羊犬に守られた羊たちや猫たちが2人を迎えます。
 夜に入ると、また1転して戸外は雪嵐。一夜明けて、詩人は「外出しなくてもよいありがたさ、考え、存在するための一日が、そっくりあるのだもの」とペンを置くのです。
 嵐の数夜が明けて2月9日は、外は銀色に氷化した樹々と、四月の空と、雲の裂け目から輝く日光。これは私の心象風景とそっくり、と呟く詩人。鸚鵡のパンチと野良猫と、シューベルトの即興曲。独りで居る事のかずかずの内省と、そこから作り上げる創造、生きる事の意味を問い続けながら日々を過ごし春を待つ。
 13日、部屋中春の花にかこまれたバレンタインの日。ユングの光と闇の意識について2つの文章を引用して終わる。次回十月八日を予定。、

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