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プロフィール

高沢英子

Author:高沢英子
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 伊賀上野出身
 京都大学文学部フランス文学科卒業

 メイの会(本を読む会)代表。
 元「VIKING]「白描」詩誌「鳥」同人

著書:「アムゼルの啼く街」(1985年 芸立出版) 
「京の路地を歩く」 (2009年 未知谷)
   「審判の森」    (2015年 未知谷)     

共著: 韓日会話教本「金氏一家の日本旅行」(2007年韓国学士院)
 現在メールマガジン「オルタ」にエッセーなど寄稿。

 

東京都 千代田区在住


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わが街かわら版 ⑦        高沢英子
 マジョルカの冬ージョルジュ・サンドとショパン 

四〇数年前、ミュンヘンから帰国の途に就く前に、私たちは同じく帰国する日本人の家族と、スペインのマヨルカ島で数週間を過した。沖縄本島の三倍ほどの大きな島で古い歴史を持ち、修道院や大聖堂もあり、手ごろな観光地としても有名だった。
季節は早春、バルセロナから船で渡れるこの島の首都パルマのホテルは、厳しい冬の寒さを避けて、比較的安い費用で長期滞在して楽しんでいるドイツやイギリスの高齢の年金生活者たちでいっぱいで、夜はダンスパーティを開いたり、海辺の散歩や、島の有名な洞窟を船で廻り、起伏の多い島なかを自転車で走ったりと、思い思いに長い冬を楽しんでいた。雨の少ない土地で、ショパンがトルコ玉のような、と言った青い空と瑠璃色の海で、子供たちは一日中泳ぐことができた。
およそ二〇〇年前の一八三八年秋一〇月、フランスの作家ジョルジュ・サンドは、友人に「天国のよう」とすすめられ、二人の子供と、ポーランドから来た若いピアニスト、ショパンを伴い、このマヨョルカ島に二月まで滞在している。二年前に知りあい親密になったショパンとの仲が、パリの社交界でとかく噂の種となっていたので、既に肺の病に侵されていたショパンの療養目的もかねた逃避行だった。
かれらが滞在したのは、バルデモサ村のシャトルーズ(カルトゥハ)修道院、標高の高い山間にあり、平地の暖かさと違い冬は凍りつくような寒さ。おまけに雨季とあって、旅行は困難を極め、病状は悪化、保守的な村人の冷たい目を浴びて居心地も悪く失敗に終った。
だが精力旺盛なサンドは、ショパンの看護や薬の調達とかいがいしく動きつつもペンを取り続け、病苦のショパンも取り寄せたピアノで、二十四の前奏曲やポロネーズ「軍隊」、雨だれの曲などの名曲を作曲した。
三年後サンドは「両世界評論」に詳細な風土の紹介付きの紀行文「マヨルカの冬」を掲載。その本は彼らが滞在した僧房で山積みして売られていたが村民をダンスと歌うことしかできず考えない愚か者達などとちらちら書いてあり、出版当時村人ををかんかんに怒らせたとか。
わが街かわら版 ⑦           高沢英子
  コレットの「青い麦」
早春、秋に撒いた麦の種がいっせいに青い芽を出し、麦踏みは大事な農作業のひとつになる。風がまだつめたい季節、蟹の横這いのように、畝に沿って踏んでゆく。夏のフランスの旅では、車窓から見渡すかぎりの小麦畑で、みのりをむかえた麦の穂が、吹く風に青い海のように波打っていたのを思い出す。麦は踏まれたら強くなるらしい。
一九五四(昭和二十九)年八月、パリでひとりの作家が世を去り、フランスは彼女を国葬で葬った。作家の名はシドニー・ガブリエル・コレット。一八七三年(大正六年)生まれ、大衆作家の幼な妻となり、夫のすすめでペンをとる。離婚後、パントマイムの芸で自活。編集者との再婚、離婚と、自由奔放な生涯で一女を育てあげ、心に沁みる数々の名作を残した。小説「青い麦」は、夏の海辺を舞台に、毎年家族とパリからやってきて、隣同士の別荘でヴァカンスを過す幼馴染の十五歳の少女と十六歳の少年の幼い恋を描き、一九二二(大正十一)年断続的に「ㇽ・マタン」誌に掲載、翌年出版された。
成熟するにつれ、互いに惹かれ合い反発と魅惑にさいなまれる二人の前にあらわれる年上の美しい女。彼女にいざなわれ、夜明けにひそかに帰ってくる少年の足音に耳を澄ませる少女の苦悩。
空の光、砂地に這うはりえにしだの花、潮に洗われた岩々の割れ目を逃げ去る蟹、夏の海辺の渇いた自然の風景が、微細な心の襞をも見逃さない濃密な心理描写と一体化し、未熟な魂と成熟期の肉体の葛藤を描く筆の深みにいつしか絡みとられ惹きこまれ、ときには遠い追憶の断片に光が当てられ、多様な局面から愉しめる小説の醍醐味を味わわせてくれる佳作だ。
訳者堀口大学紹介のフランスの評論家曰く「彼女の作品の中に深遠な哲学も、異常な性格も、求めるべきではない。彼女が知っているのは感覚だけである。だが彼女の言葉は宇宙のきらめきと奇跡を表現している」と。昭和昭和二十八年映画化され日本でも公開された。  
同じ年発表された少年少女の志摩の海辺の恋を描いた三島由紀夫作「潮騒」はこれに触発されたと聞いたが、社会背景や風俗を、男の視点による力強い筆さばきで書き、趣はかなりなり違う。
わが街かわら版⑸
   引きこもりの詩人 エミリー・ディキンソン
大晦日に初日の出を見ようと娘の運転で九十九里浜まで走り、孫と三人、暗い浜辺に陣取って車内で夜を明かした。夜半、ふと気がつくと真の闇と思われたあたりが少し明るみ、海面に白波が見え、見わたすかぎり、さえぎるものもない遠い空に星がまたたき、中天に満月に近い月が輝いていた。陰暦十一月十五日、元旦は十五夜にあたるのだ“月の光にうつしだされた海は静かで、ゆったりと寄せてはかえす波音だけが聴こえてくる。
月は 金のあごだった
一日 二日まえには。
いま 月は 完全な顔を
下界に 向けている

ひたいには たっぷりと金髪、
頬は エメラルドの色、
視線を 夏の夜霧に落としている
わたしの 一番好きな 月のすがた
と歌ったのはアメリカの近代随一の詩人ともてはやされるエミリー・ディキンソン。生涯ニューイングランドアマストの田舎町を出ることなく、喧騒の世界をよそに孤独な自己と向き合い、魂の底から迸る多くの詩を書きのこした。生前発表した詩は匿名の数編にすぎず、死後妹がみつけた遺稿が頒布され、愛好者を得たが、一八〇〇篇におよぶその全貌が研究者の手であきらかになるのは死後七〇年もたった一九五五年だった。その自然を歌う語は繊細さにみちているが、ユーモアにもこと欠かない。わが国でもターシャ・チューダの絵とあたかも協奏曲を奏でるかのような美しい詩画集「まぶしい庭へ」が角川から出版され、晩年には家から出ることさえしなかったという孤高の生涯を描いた「静かなる情熱」というタイトルの映画が昨秋岩波ホールで上演された。
夜が明けた。わたしは目路はるか大海原のかなたから輝く日輪の差し昇る姿を目のあたりにし、その黄金色の圧倒的な美しさに胸つぶれる思いで呆然と立ちつくした。そして、夜の月を愛した詩人ディキンソンが、もしこの日輪を眺めたとすればどんなふうに歌ったことであろう、と思った。浜辺では初日の出を見にあつまった人々が交歓し、寒風のなか、サーフアースタイルに身を固めた男たちが、てんでにサーフボードをかかえ、海にむかっていく姿が、三,三,五,五、黒いシルエットとなって見えていた。                
  かわら版⑷「大つごもり」を読んで      高沢英子       
 樋口一葉は市井の片隅で懸命に生きる人々を、語り手の情景描写と登場人物の対話を織り交ぜ目に浮かぶよう描き出し、忘れがたい余韻を漂わせる作品の数々を残した。「大つごもり」もその一つ。
「大つごもり」をテーマにしたものには井原西鶴の「世間胸算用」に笑えぬ悲喜劇を描いた作品があるが、西鶴の面白うてやがて悲しき恍けた才覚の見え隠れするものに比べ一葉のそれが時代の違いを超え一段と心に沁みるのは、行き届いた状況描写と貧しい人々に注ぐ愛のまなざしであろう。
幼い時両親を失い貧しい伯父夫婦に育てられた娘お峰が奉公した先は町内きっての大金持ち、家事は女房まかせの主人と強欲で意地の悪い御新造と贅沢三昧の娘達に先妻の残した放蕩息子石之助という家庭。病に倒れた伯父の一家は逼塞し、八歳の息子が蜆売りをして薬代を稼ぎ大晦日に払わねば済まぬ高利貸の延滞料二円、お峰に主家で借りてくれるようすがる。だがお峰が必死に頼んでおいた約束の大晦日、御新造は聞いた覚えないと撥ねつけ、抽斗に金をしまって出かけてしまう。お峰は、居間の炬燵で昼寝をしている息子ひとり残った家うちで死を覚悟で抽斗から二円を盗み出し、取りにきた子供に渡す。帰った御新造が抽斗をあけると、金は全部消え「引出しの分も拝借いたし候」との置手紙が一枚。先刻暇乞いして遊びに出た息子の仕業ときまる「孝の余徳は我知らず石之助の罪と成りしか、いやいや知りてついでに冠りし罪かも知れず」
樋口一葉は明治5年東京都千代田区の東京府庁構内の長屋で生まれた。幕末志を立て山梨から江戸に出た父は武士の身分を手に入れたが運に恵まれず、跡継ぎの息子も失い失意のうちに世を去った。
一葉は十七歳で家長として一家を支える重荷を負い、もの書くことで生計を立てようとしたのである。師の半井桃水への思慕を胸に秘め、ひたすら家族のために精進した生涯。自己主張の多い女性作家の中できわだって女ごころはおろか寂しい男ごころの襞まで見事に描くことのできた稀有な存在だった。眼識の高い人々は早くからその並々ならぬ才能を見抜いていた。森鴎外は勿論、漱石も常にうまいとほめていたという。


                             
私の宝箱から⑶                   高沢英子             
 光ある身こそ苦しき思いなれ
京都に居た時、鴨川のほとりで生涯を終えた頼山陽の旧跡を時折訪ね、山陽の才能ある弟子として、親交の深かった加賀の女性詩人江馬細香の存在を知った。
日本では、平安時代の女性文学作品があまた残されているにもかかわらず、南北朝以後江戸が終焉する明治初期、樋口一葉が出て来るまで、女性が何かを書いたという記録は、せいぜい加賀の千代女の俳句くらいで、文学史上殆ど登場しない。私はかねて江戸時代は日本人の識字率が世界でも突出して高く、儒者や漢詩人が多くの著書を出版し、和歌、俳諧、川柳、読み本、戯作本も数知れず、芝居小屋の繁盛した文化全盛期だったのに、ものを書く女性が世に存在しなかったとはおかしい、と思っていた。 
だが実は、江戸期にものを書いた女性は確かに多く存在していた。寡聞にしてその事実を知らなかった私の眼を啓いてくれたのは一九九八年出版の門 玲子著「江戸女流文学の発見」(藤原書店)だった。登場する女性文人は細香はじめ五十数名、三百数十ぺージに及ぶ労作で、副題として文人の一人、只野真葛の和歌「光ある身こそ苦しき思いなれ世にあらわれん時を待間は」の上の句を添えていたのが目を惹いた。著者も江戸期の女性文学者達の強烈な自負心にしばしば圧倒されたといい、それが彼女たちの文学を支えたのであろうと書いている。
只野真葛(工藤綾子)は宝暦三年(一七五三年)仙台藩江戸詰医師工藤平助の娘として日本橋に生まれ、裕福な教養ある家庭で充ち足りた少女時代を送り御殿勤めなど体験した後、三十五歳で仙台藩士只野伊賀に嫁いで仙台に移り住む。夫は千二百石取りの上級武士。柔軟な知性をもち、真葛のよき理解者で妻に書くことを勧めたので、日記や紀行文、思い出の記などを書くが夫は彼女が四十九歳の時、江戸で急逝する。実家の家運も傾き孤独となった真葛は、それ迄考え抜いた人生万般におよぶ独自の思想を世に問おうと思いたち、「独考」と題した原稿を滝沢馬琴に送り講評を乞うが、儒教的教養の深い馬琴は彼女の才能は認めつつも、余りに自由な発想に「まことのみちをしらざりける」と強く批判。ついに世に出るに至らなかった。         

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