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プロフィール

高沢英子

Author:高沢英子
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 伊賀上野出身
 京都大学文学部フランス文学科卒業

 メイの会(本を読む会)代表。
 元「VIKING]「白描」詩誌「鳥」同人

著書:「アムゼルの啼く街」(1985年 芸立出版) 
「京の路地を歩く」 (2009年 未知谷)
   「審判の森」    (2015年 未知谷)     

共著: 韓日会話教本「金氏一家の日本旅行」(2007年韓国学士院)
 現在メールマガジン「オルタ」にエッセーなど寄稿。

 

東京都 千代田区在住


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草の戸随想十二月

「大つごもり」                高沢英子

新年はせめて晴れやかであってほしいと願うものの、このところ世界は不穏で、これからどうなるものやら見定めがたい今日この頃である。御代も変わることが本決まりになり、昭和はいよいよ遠ざかりつつある。
そしてこのところ連日届く喪中のご挨拶状もばかにならない数で、寂しい思いをしている。戦争を知る人たちがこうして次々世を去ってゆくのは残念だけれどもしかたがない。
ノーベル賞の授与式に原爆被爆者のひとたちが出席したとのニュースが流れたが、これに関しては将来世界が良識をとり戻すことができるかどうか、先行きはあくまでも不透明で、不安は消えない。
このさき孫たちの世代の人生はどうなるのだろうか、そのまたさきは?だれも予測はつかず、しあわせでいられますように、と祈ることしかできない。
つねづね地球温暖化を心配していたら、暮れ近くなってにわかに寒波が襲来し、東京の空も重苦しい雲がたちこめ、肌を刺す冷たい風が吹き、この時期に晴れた日にはベランダから美しく冠雪した富士のすっきりした頭がビルのあわいに見られるのだが、二,三日前の朝ふと見るとまるで毛糸帽を冠っているようにもこもこしているので驚いた。娘に言うと、きっと吹雪いているのでしょうという。
テレビのニュースでタスマニアで雪が降ったと聞いて仰天した。赤道を隔てた南の国で、お正月やクリスマスには、水着姿でアイスクリームをなめているような土地に雪が降るなんて?多少高地のことなのだろうが、何年も前しばらく暮らしたシドニーでは、クリスマスに街で見かける汗だくのサンタクロースを気の毒、と話し合ったのを思い出した。
カリフォルニアの山火事もいまだに収まる気配が見られない。
エルサレムでは聖地争いが再燃し、北の国は巨費を惜しげもなく投じてミサイルや核の技術を磨くことに専念。粗末な木造船で、寒風吹きすさぶ海の上をさすらっている人たちは放念されているのだろうか。
理解しがたいことばかり起きるのを見ながら、平成の年を送ることになりそうである。
それはさておき、天地がもう少しおだやかに推移していたころの日本の大晦日や新年の世情を描いた絵や随想、物語はさまざまあると思うが、私の知っている代表的なものに井原西鶴の「大つごもり」と樋口一葉の同名の小説がある。
前回の江戸女流作家只野真葛に次いで、樋口一葉の作品を読んでみた。時節柄「大つごもり」を選んで、明治の東京の
町びとたちの暮らしのあれこれを目に浮かべながら、胸に沁みる思いで読んだ。
井原西鶴の「世間胸算用」にも大晦日の笑えぬ悲喜劇を描いた作品が有るが、西鶴の面白うてやがて悲しき才覚の見え隠れするものとは違い、心に沁みるリアルな短編小説のかずかずは市井の片隅で懸命に生きる人々を描いて余すところがない。語り手の情景描写に登場人物おのおのの語りが織り込まれ、まるで手に取るように話が展開し、息もつかせず事が運び、忘れがたい印象と余韻を残す短編小説の見本のような作品だ。
 すでに読まれた方もあろうが、あらすじを御紹介しておく。
幼くして両親を亡くし、細々と八百屋商売で食べていた貧しい伯父夫婦に育てられたお峰という娘が主人公。女中奉公の先は町内きっての大金持ちだが家のことは女房まかせの主人と、強欲で意地の悪い御新造に、贅沢三昧のその娘たちと先妻の残した放蕩息子石之助の家庭。
かたや病に倒れた伯父の一家は逼塞し、年の暮れに、高利貸から借りている借金の返済もままならず、延滞料としてどうでも払わねば済まぬ二円の工面もつかず悩んでいる。八歳の息子が蜆売りの行商で父親の薬代を稼いでいる有様。大晦日が迫り高利貸の延滞料二円を主家で借りてくれるようすがられ、お峰は必死に主人に頼みおくが、約束の大晦日の朝、聞いた覚えないと撥ねつけられる。昼も過ぎ子どもが金を貰いに来る時刻が迫り絶望したお峰は、主人、御新造それぞれ出払って娘たちは庭で羽根つきに余念なく息子は居間の炬燵で昼寝というすきをみて、御新造が金を仕舞ってある抽斗から二円だけ盗み出し、取りに来た子供に渡してしまう「見し人なしと思えるは愚かや」(とはなにやらいわくありげな伏線だ。)さて石之助は、親が帰宅するや正月の遊びの大金をせしめると、継母に「お母さまご機嫌よう良い年をお迎えなされませ。左様ならば参ります」とわざとらしく暇乞いして姿を消す。御新造が年末の金仕舞いと抽斗をあけるのを見てお峰は発覚すれば死ぬ覚悟をきめたが、中はもぬけの殻「引出しの分も拝借いたし候」との石之助の置手紙が一枚「孝の余徳は我知らず石之助の罪と成りしか、いやいや知りてついでに冠りし罪かも知れず・・後の事知りたや」で幕が閉じられる。盗みという不祥事ながら胸のすくようなどんでん返し、継子ゆえのはぐれ者一家の鼻つまみ石之助のこころもどこかあたたかい。
樋口一葉は、明治5年、幕末に山梨から志を抱いて上京した両親のあいだに、兄と姉に続いて次女として現在の東京都千代田区の東京府庁構内の長屋で生まれた。時代は変わり一家の運命は波乱に充ち、早逝した兄に次いで父を失い一葉は十七歳で家長として一家を支えねばならない重荷を負う。向学心に燃えて和歌や古典の修養を身につけていた一葉は、ものを書くことで生計を立てようと志し、当時東京朝日新聞の小説記者であった半井桃水の指導を受け、小説を書き始める。
師の桃水へのひそかな思慕の念を胸に秘めつつひたすら家族を支え精進した窮乏の生涯。辛酸の中で磨いた観察力と筆力は並ではなく、情景描写も完璧、自己主張の多い女性作家の中できわだって女ごころはおろか寂しい男ごころの襞まで見事に描いてみせた稀有な存在だった。生前は報われなかったものの、眼識高い人々は彼女の並々ならぬ才能を早くから見抜いていた。森鴎外は勿論、漱石も常々うまいとほめていたという。
草の戸随想 十一月号 237号           高沢英子
今年もとうとう神無月となった。先祖代々宮中の卜占をつかさどる神官の家柄に生まれたというのに、合理主義者だった兼好法師は、「十月を神無月と言いて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず(中略)この月,万の神達、大神宮に集まり給ふなど言う説あれども、その本説なし」と書いているが(二〇二段》、ともかく、暦では、十月四日は仲秋の名月、かつては家々ですすきを飾り、さんぼうに里芋や栗などを盛って月見をし、「芋名月」などと呼ばれていた。
戦前は、普通の家庭行事で、十月の終りか十一月初めのお月見は後の月または十三夜と呼んで、やはりお団子に、今度は大豆や、熟し始めた柿なども供えた。私の祖母なども、例年こうした日々をなくてならない行事のように守っていた。
子供の頃の我が家は二階建てではない旧式の大きな町家だったので、祖母は、中二階に作られていた子供部屋の窓から見える月を眺めたいからと、夜更けまで部屋に居座るのだった。
「寝待月」などといい、眠いのを我慢して付き合ったが、「秋の月は、限りなくめでたきものなり」と兼好法師がいい、(二百十二段)「とても月はかくこそあれとて、思い分かざらん人は、むげに心うかるべき事なり」なんて書いているのを読むと、農家育ちで、歌を詠むわけでもなく徒然草なども知らず、幸せでもなく老いた祖母が、年ごとのならわしだけは、こまめに遠慮がちにとり行っていた姿を、今更懐かしく思い出したりする。
今年の仲秋の名月は、関東では曇りがちの夜となり、時々小雨も降ったりしたが、遅くに雲の切れ目から姿を見せ、人の世をひっそりと照らしていた。あくる日からは、ますます不順な天候で、暑くなったり、にわかに冷え込んだりして下界は散々振り回され、月見どころではない日々が続き、とうとう冬支度を考えねばならない陽気となった。  
今年の十三夜は旧暦九月十三日で、十一月一日となるが、このところ宇宙の様相は不安定で、ほんとに見られるかどうかわからない。
十三夜と言えば、思い出されるのは樋口一葉の名作「十三夜」である。現代の日本では、もう見られない哀しい話として、昔語りになってしまったかに思えるけれども、ひとの心はそうたやすく変わるわけもなく、根っこのところでは、まだまだ、価値観の違いからくる差別意識や感性のずれにからめとられ、職場や地域ばかりか、家族のなかでも、不満や悲しみをくすぶらせていることは多いのではないだろうか。
 少なくとも 私の世代では、こうした人間関係のゆがみは、まだまだ生きていた。戦後は価値観もかなり変わり、世間では、表向き新しい社会関係が作られつつあったものの、地方では自称「明治人間」という教育勅語信奉者がまだまだ頑として存在した。息子たちをお国に、というより天皇陛下様に捧げたことは大きな名誉であり、女は家に従うことをいささかも疑っていない世代が健在だったのである。
最近でもその勢力は生き残っている。「森友」問題はそのいい例だが、関西でも特に旧弊な地方では、まだまだこうした時代錯誤の観念を頑なに握りしめている人たちがいるのを、私も傍近く見てきた。
戦後の一風景として面白いかもしれないし、当事者たちは懸命に生きていたわけで元気なうちに書いておきたいとも思ったが、。残念ながら、一葉のような才能の持ちあわせも、根性もなかったので、涙で袖を絞るようなお話にもできず、すっきりしないまま、もやもやと歳月を送ってしまった。
さて、前号の続きの話になるが、徒然草を読んでいると、世の仕組みが変わり、ひとびとの心も、それにつれて流され変わってきた、と歴史などでは論じられ、時代ごとに、老若それぞれの生活観の違いなどを嘆く声がしばしば聞かれるにもかかわらず、人の心というものは、実は案外変わらないらしいという発見をして、胸を衝かれることがある。
 たとえば百九十段を読んでみると、いきなり冒頭から
「妻(め)というものこそ、男の持つまじきものなれ」という主張にゆきあたる。さらに「『いつも独り住みにて』など聞くこそ、心にくけれ」と続き、独身生活をする男たちを、自身も含めて手放しで謳歌絶賛しているのである。あたかも現代、日本の都市に増えていると思われる独身男性のセリフを聴いているかのようで「それはどういうことですか」と思わず訊き返したくなるが、そのまま耳を傾けていると、「如何なる女を取り据えて相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるわざなり」と情け容赦もない。「如何なる女」というのは、これこれという女という紹介の言葉、と注解にある。原文のまま書き写すのが面白い、と思うが、あえて注解を参照して現代風に直すと、「こんな風にして、特別どうってこともない女をすばらしい女だと決め込んで、連れ添っているんだろうとかりに推測されるが、いい女なら、守り本尊みたいに大事にするのもいいが、それほどのものとも思えないんだから・・・」。と手厳しい。
さらにまた、行い済まして家政に長けた女は、これまたますます疎ましい。子供ができていつくしんでいるのもうっとうしい。男が亡くなったからといって尼になって菩提を弔いつつ老いたありさまなど見るも興覚めだ、などなど。「あなたは、いったい女に何か恨みでもあるんですか」と訊きたくなるような言い草で、今風に云うと痛烈な反社会的言説で徹底している。そして「どんな女でも朝夕顔を突き合わせていたら気に喰わないところも目についていやになるだろう、と、結局はお互い別々に暮らし、時々女のところを訪ねたりして、ときには泊ったりもして親しむのがいつまでも新鮮な気持ちでいられてよろしかろう」というのである。
経済事情が許せば女にとっても好都合な話かもしれないな、と思ったり、それなら前回触れた薫香にまつわる話に出て来る男女の仲なども、もしかしたら出家遁世以前の若き日の兼好法師みずからの体験かも、とおかしい。
甘いも辛いも人生。とはいえ、人間、自分自身をしっかり保って、心安らかに生きてゆくのは、いつの時代でも、なかなか難しいものらしい。


            
                    
                              
草の戸随想 230号        高沢英子
   
冬の庭
―曇りふかき蓑虫庵の冬庭やものしづかにも吾れはありける―
―年月の隔たりかなし過去帳を繰りならはして心虚しも―
菊山當年男

わたしのうちではそのひとを「菊山さん」と呼んでいた。明治十七年伊賀上野のお生まれで、祖父のしたしい友人であり、アララギの歌人であり、古伊賀焼を復興させたすぐれた陶工で、わたしの両親の仲人だった。
若いころ大阪朝日新聞の記者をしていられたこともあり、社会的にも高い見識をもっておられ、明治維新後の上野の町の近代化に、同じ若い同志たちと協力して、他都市にさきがけて進んだ文化都市としての基礎を築かれた功労者でもあった。
昭和のはじめ、わたしの父は神戸の銀行をやめ、両親は幼い私と妹をつれて伊賀の実家にもどり、上野信用組合(のちの金庫)につとめることになったが、菊山さんはこの信用組合の重要な創設メンバーのおひとりで、創設当時常務理事をつとめておられた。  
昭和十五年秋。菊山さんは東京日本橋の寶雲社から大著「はせを」を上梓された。引用した和歌はこの本の巻末に菊山さんが添えられていた歌の中から抜粋させていただいたものである。二十数年前、家を整理したあと、祖父や父の蔵書は遺して、その一部は移動のたびに手元において持ち歩いてきたが、「はせを」もその一冊だったが、じっくり読んだことがなかった。いまそのあとがきを読み返すと、私たち一家が芦屋から伊賀に帰った昭和十年という年は「昭和七年三月中京に勃発した財界破綻の劫火が、忽ち三重県下に襲来して我が組合も亦類災の難を蒙り…」という大変な事件のあとで「私はその燃ゆる焔のなかに飛びこんで、当然生みの子を火中に救わねばならなかった」という事情から。菊山さんは事態の収拾に東奔西走「あるときは東に走って夜寝ねず、西に駆けては昼食はず・・」「肉を削り神を労して猶足らざるを憂へた・・」という大災害が組合員その他の協力も得てようやく「白日明朗な静けけさに帰した」が菊山さんは過労と心痛でたおれ、二年あまり病臥され、ようやく回復された時期にあたっていたことを今回初めて知った。若かった父が、菊山さんがこうしてささえられた上野信用組合の新しいメンバーとして迎えられたのだということも初めて知った。
菊山さんと奥さんの喜志さん、お二人は私にとっては祖父母みたいなもので、ほんとにかわいがっていただいた。
わたしは無智で、それがどれほど有難いことか、少しも分かっていなかった。まして、今も大切に持っている菊山さんの著書「はせを」がどれほどすばらしい本だったのか、おりおり頂いた茶碗がどれほどの値打ちかも全く分かっていなかった。
わたしがおうちにしょっちゅうお伺いしていたころ、菊山さんは七〇歳に近いお年だった。結核で大学を休学して家でぶらぶらしていた私に、喜志夫人が「たまにはうちへ遊びにきなはれ」と誘ってくださったのがはじまりで、陽当たりの良い奥の座敷で、いろんなお話をうかがい、わたしも遠慮なく、あれこれとりとめもないお喋りをしたが、いつもきちんと聞いて意見を言ってくださった。話題は豊富で、多くのことを教えていただいた。
アララギの歌人として斎藤茂吉に私淑されて数多くのすぐれた歌を詠まれ、三重放送でたしか選者もつとめられていたが、かねてから尊敬しておられた松尾芭蕉の郷里伊賀における動静が意外に正しく世に伝えられず、伊賀における蕉門の蓮衆の事歴もはっきりしていないうえ、諸国の俳壇の様子も混とんとしてまとまりがないことに気づかれ、残念に思われて昭和六年ころから調査に乗り出されていたらしい。先に触れた大病のあいだに菊山翁は余生を郷土の文化発掘に捧げようと決意されたようである。
こうして畢生の大著「はせを」の執筆がはじまった。そして伊賀での芭蕉の足跡を、頭と足を使って常人にはとうていまねができない綿密な調査をかさねられた。
わたしも今回よみかえして、埋もれていた多くの史実を知ることができたのである。出版は昭和十五年で、俳諧を中心に近世文学研究の第一人者だった京大の故穎原退蔵教授はじめ各界から感謝の声と賛辞が寄せられた。斎藤茂吉は、
―わが友の心を込めしこの巻に秋の月かげまさやかに照れー
ーあはれなるまこと傳ふる考証をこよひ夜寒に身より離たず―。
など、作品中の壽貞尼考にまつわる数首の歌で巻頭を飾っている。
思い出せば、出版当時、伊賀でもさる大手の新聞社が、氏をかこんで上野の小学校の生徒代表数人が質問する、というかたちの座談会を企画したことがあった。たしか五年生だった私も代表のひとりに選ばれ、はりきって予備知識の勉強などもすこしして出席したところ、会のはじまる前に、緊張した顔をした担当記者がやってきて、あらかじめ用意した質問文をあたふたと生徒たちにくばり、あなたは何番目にこれを聞いてください、と指示された。内容は忘れてしまったけれども、ごくありきたりの、子どもらしくない質問で、がっかり拍子抜けしたことをおぼえている。菊山さんも喘息気味の咽喉につかえたようなお声で、もぐもぐいわれて、なんと答えられたのかもおぼえていない。新聞はこんな風にしてつくるのかしら、と、子供こころに新聞そのものの信用までなくしてしまった。
いずれにしても菊山さんは大変な教養人で、京都の武者小路千家で茶道もたしなまれ、古伊賀焼の復活に力をいれ、みずから古伊賀の復元に挑戦された。おうちの庭に大きな窯を築いて手伝いの男衆がひとり。何千度もの火入れでくりかえし焼くご苦労を、しみじみ話しておられたこともある。
昭和二十九年、昭和初期から始まっていた法隆寺の修理で五重の塔に続いて金堂の修復が完成、十一月に行われた落慶法要に招かれた菊山さんは私を連れて行ってくださった。晩秋の斑鳩の里を杖をついた菊山さんの手をとって歩き、うしろのほうで喜志夫人が
「あれまあ、若い娘さんに手つないでもろうておじいさん喜んでますがな」とくすくす笑っておられた。
病からなんとか回復したわたしがふたたび京都の大学にもどることになり、挨拶にうかがったとき、菊山さんはわたしに
「京都は茶所やないか。折角京都におるんやから、是非茶を習っておきなさい」といって大ぶりの和紙の立派な名刺に、かねてからご昵懇だった武者小路千家の家元宗匠にあてた紹介文を書いて渡された。そして、私は何度か武者小路家の門前まで行ったけれども、結局茶の稽古がどれほど大切なものか理解できず、とうとう門は敲かなかった。じつは戦前は父や祖父がよく我が家でも茶会を開き、孫の私も物資が乏しくなってからは手作りの菓子を焼いたりして手伝ったのだが、学生当時、茶道なるものや家元制度に不信感を持ったりして名刺は長いあいだわたしの机の抽斗に入ったままだった。
すべては遠い昔のこととなったが、これらは終戦からまだ数年しかたっていない時代のことだった。そしてその頃じつは、あの戦争で前途ある最愛の末息子さんを失われた菊山さんと奥さんの喜志夫人が、どれほどの心の痛みをかかえておられたか、深く推しはかることもなく、あつかましくただ甘えていたことを思うと、いまさらながら申し訳なさで胸が苦しくなる。

一昨年の秋、「伊賀百筆」誌の特集戦後七十年で「『きけわだつみのこえ』に伊賀から二人」という福田和幸氏の論稿が掲載された。お読みになった方もあると思うが、わたしはあらためて菊山九園ご夫妻と菊山當年男ご夫妻のご不幸をくわしく知って愕然とした。亡くなられたお二人は、いとこ同士だったのも無念さ倍増である。菊山さんご夫妻が大切にいつくしまれたご次男吉之助さんは大正四年生まれ、東大卒業後農林官僚として人生を始められたばかりで応召され、レイテ島の激戦で命を落とされていた。いっぽう菊山九園氏の御子息裕生氏は大正十年生まれで東大法学部在学中の学徒兵で、終戦の直前ルソン島で戦死と知る。私事ながら、氏と大学で同期の義兄(芭蕉伊賀の誌友でもある従姉の阪本寿美子の夫で先年物故)は旧満州からシベリア送りとなり消息不明のまま数年経過。そのあいだの姑の嘆きと心痛を、その後同居した私は間接的に、周辺の親戚からたびたび聞いた。さいわい義兄は何年かのちに、やつれ果てた姿で帰ってきて復学し、東京で職についたが、生涯シベリアについて口を閉ざして多くを語らなかったという。弟だった夫も金沢の四高在学中に現地召集され、強制的に接種されたBCG注射と発熱のさなかの重労働で、戦後東大在学中に腎臓結核が重症化し、摘出手術を受けている。戦争はあまたの若い学徒たちの命を奪い、菊山両家のご夫妻の夢と希望をも粉々にうち砕いたのだった。しかも菊山九園氏は當年男氏と従兄弟同士、夫人の亨女さんは喜志夫人の妹というご関係ということで、戦没されたお二人は濃い血縁で結ばれていたとのこと。いづれのご両親のかなしみもどれほどのものであったろう。俳人九園ご夫妻の句にまず胸打たれる。裕生氏ご本人も有星という号で三高時代から句作。戦地にあっても句を詠まれていたとか。伊賀にとっても惜しい方々であったとつくづく思う。
伊賀百筆に掲載された福田氏の論稿は「わだつみのこえ」を中心にお二人の足跡や御両親の心情を事細かに追跡されたご労作で、繰り返し読ませていただいてつくづく胸にしみた。福田氏が丹念に探索され、再現された当時のご両親の悲しみの句や歌から、二つ三つ拾わせていただく。
ふるさとの祭りや父母はいかにますか有星
如月の北斗光れり祈るなり     有星

戦場に北斗祈りし句を最後    九園
老妻や還らぬ吾子に秋を病む   九園
蝉取りの子らに泣き顔見せまじと 亨女
 茄子漬の色よろこびし彼なりき  亨女
吉之介氏の歌
 明けきらぬ湿田に伏して見透かしぬ共匪部落に乳児の泣く声
當年男氏の歌
吾が命衰えぬらし還らざる子を歎きつつ春逝かんとす
靴音のかどにとまれば走り出て子を待ちに待ち七年となる
今日の日は遂に来たれり引き揚げの最後の船にも吉之助はなし
箸折りて畳に片仮名組みし子の四歳なりしを妻いひいづる
母として悔いなく育てたる子ぞと泣き入る妻をただに見まもる

私がまだ病で臥せっていたとき、見舞いにきてくださった喜志夫人が、向こうの座敷で祖母や義母たちにむかって、もちまえの大きなお声で「あれにつきましては、まあ、あの年まで、神様がわたしたちに大きなおもちゃをくださって楽しませて下さったんや、思うております」と言っておられたのを、聴いたことがある。いまだになにかというとこのことばがうかび、かなしい母ごころに胸締めつけられる思いがしている。戦争はあってはならない。
新年おめでとうございます。長らく停滞気味で失礼しました。今年からわたしが毎月投稿している随想もこちらに転記してみようとおもいます。また折に触れての読書感想、その他も書いてゆこうと思います。またお暇な折お読みください。今回は俳誌「芭蕉伊賀」しに今年掲載したものです
草の戸随想      高沢英子
  
  「戦場にかける橋」
地球上で様々なことが起こった二〇一六年も、太陽暦に従えば幕を閉じ、東洋古来の暦によれば丁(ひのと)酉(とり)の幕開けとなった。干支の起源は古く甲骨文の時代からあったといわれ、解釈には後世のこじつけも多いらしいけれども、それなりに古人の知恵の結集として無視できないところもあると思う。一説では、丁は古来から火の象とされ、酉は金の意味を持つとしてこの組み合わせは火剋金となり、世にいう相剋の語源ともなり、天地の平衡が失われる悪いしるしらしい。
とはいうものの物事にはたいてい表と裏があり、一面では陰の火は夏の意味をもつことから、草木が成長して真っすぐに芽が伸びて行く象徴で、丁の字は釘や打などの漢字に使われているように直角を意味し、安定のしるしともされているという。さらに酉は秋の象徴で、秋は酒造りの季節であることから、酒の字の一部となり、収穫した果実や穀物から作られる酒の意味とかさね、実ったものを確実に取り入れるしるしとも考えられるという。これも真実かどうか、古人の知恵を信じるしかないが、もしそうであれば、あながち悪い年とも言えない。昨年は丙(ひのえ)申(さる)で陽の年であったそうだが、今年は佳きにつけ、悪しきにつけ、すこしは落ち着いた穏やかな年であってほしいものである。
干支は六十年で一巡りし、それによれば、昭和三十二年もこの年で、石橋湛山首相が病に倒れ、岸内閣が発足した年である。戦後の日本はまだまだ貧しく、岸内閣は、貧乏、汚職 暴力の「三悪追放」というスローガンを掲げて発足したものの、なかなかこれといった目覚ましい成果は得られず、自衛隊が増強され、憲法調査会などが創設された、と、戦後史の中で記録されている。東海村に日本初の原子力発電所が設けられたのもこの年だった。
岸信介氏は戦時中は東条内閣の商工相として入閣、軍需相なども務めたが、機を見るに敏で、敗色濃くなるころには早期の講和を提唱、終戦の前年ころから東条英機首相や軍部とは対立姿勢をとっていたことも事実で、戦後一旦はA級戦犯の被疑者となったものの、不起訴となったという経歴の持ち主である。
六十年後の今日、岸の孫にあたる安倍首相がどのように国政を運営していくか、国民は今度こそしっかり見守っていかねばと思う。
実は六十年前の丁酉の年に、大学を卒業したわたしは社会党の議員だった伯父に呼びつけられて、東京でしばらくの間暮らした。今でいう就活の時期である。国会にもたびたび足を運んだが、目指すところが政治ではなかったし、おまけに世間知らずの未熟者で、当時のことはあまり覚えていない。
けれども復興途上の東京の熱気はすさまじかった。戦災を免れた京の平安とは大違い、朝夕の通勤時間ともなると、下駄履き、大半がくたびれた戦時服姿のサラリーマン(そのほとんどが男性)が、あるいは手ぬぐいを腰に下げ、あるいは風呂敷包みを小脇に抱え、または布製の頭陀袋を肩にかけ、工事中の地下鉄や省線の、殆ど板を渡しただけの数知れない階段を、黙々と足音高く土埃を立てて上ったり下りたりし、満員電車に押し込まれていった。当時の、人いきれでむっとする埃くさい地下道一帯に響き渡っていた軍隊の行進のような足音を、現在見まがうばかりに整えられた地下鉄のエスカレーターでのぼるとき、しみじみ思い出すことがある。病み上がりで大卒、資格もなにも持ち合わせない女を雇ってくれる職場など、おいそれと見つからず、それでもいつか世に出ることを夢見て、よるべない思いで縁続きの家から紹介して貰った家庭教師の仕事であちらこちらに出向き、芯のところは生意気で、せっせとノートに好きなことを書き散らしていた。夫と出会ったのもこの年だった。
暮から元旦にかけて関東の気象はほぼ晴朗で、年末からテレビでは、初日の出が見られる年、と盛んに報じていた。夜明けに、いつものように窓を開けて部屋の空気を入れ替える。ベランダから一望に眺められる家並みの連なりは広大で、右を見れば、はるかかなたに東京タワーが、細い瓶を立てたみたいにビルと家並みのはざまに見え、左は多摩川の対岸にひろがる川崎市街に、最近競い合ってそそり立つ高層マンション群のあいだから雪をかぶった富士の山頂が、丹沢から奥多摩へとつらなる関東山系の山並みの背後にひときわ高く、はるか夢のように美しい姿を見せている。そしてあとは雲一つない冬の空が果てしなく広がっているのである。
今年は江東の地に、できれば足を運んでみようと、年末から年始にかけて永井荷風の「日和下駄」や小説「墨東綺談」を読み、興津要先生注釈の「江戸小咄」や「江戸の食べ物」なども拾い読んだりして過ごし、三日は、早くも開かれたリハビリテーションセンターに出かけ、互いに手足や脳味噌の衰えを何とか耐えて運動に励んでいる老朋と新年の挨拶を交わし、暮からの身体のこわばりをほぐした。
正月気分もそろそろ終わる連休続きの晴れた日の朝、居間のほうからDVD映画の音楽が聞こえてきた。懐かしい「クワイ川マーチ」のメロディである。一九七六年に日本でも上映された古い映画「戦上にかける橋」だ。急いで見に行く。
居間に続く食堂では食卓の上に広げた紙に、小学六年生の孫が太筆を握って、宿題の書初めに腕を振るっている。出された課題は「夢の実現」。親たちがあれこれ口を出し、映画は誰も見ていないので、独り片隅の椅子に腰を掛け終わりまで見た。
話は第二次大戦中のビルマの国境付近にあったアメリカ兵捕虜収容所が舞台だが、バンコックとラングーン間の日本軍による鉄道架設をめぐって、イギリス軍捕虜兵士たちと、アメリカ兵の脱走の英雄が見せる、過酷なジャングルの環境での不死身の行動が繰り広げられ、ストーリーは数々の展開を見せる。指揮する早川雪州扮する剛直な日本人将校斎藤大佐の、ともすればあまりにも過酷な仕打ち、軍律や国際法遵守を主張して譲らぬ誇り高いイギリス兵捕虜の隊長ニコルソン大佐、闊達で自由な発想で動く不屈のアメリカ兵捕虜で脱走を敢行するシアーズ、それぞれがおのずから反映させるお国柄からにじみでる人間味。最終近く、クワイ川に、鉄路にもなる頑丈な木橋の構築を日本軍と協力して見事に成功させた隊長ニコルソン大佐が、日本側の隊長斎藤大佐とともに完成した橋に佇み、美しい夕映えを前にして、背を向けたまま打ち明けるシーンがある。「わたしの人生も終わりに近い.軍隊生活二十八年で家族と暮らしたのは通算十ヶ月くらい。それにも慣れた。だが近ごろふと考える。いったいわたしにとって人生の意味はなんだったのかと。何か意義のある誰かにとって役に立つことができただろうか」というセリフに、心が沁みる。身につまされ、はらはらして視聴しているうちに、ドラマはクライマックスを迎える。橋架設の情報をキャッチしたアメリカ軍の指令で、橋を爆破する決死隊として戻ってきたアメリカ脱走兵シアーズ一団と完成させた橋を死守する日本軍および協力した捕虜たちとの死闘のシーンである。爆破を阻止しようとした斎藤隊長は刺殺され、ニコルソン大佐は日英両軍の射撃に遭い、爆破器の点火箱の上に倒れ込む。シアーズも射撃で倒れ、橋は時刻通り進行してきた列車もろとも崩れ落ちてゆくのであった。あとには「一九四三年、ニコルソン隊長の指揮下イギリス軍が設計、架設」と記された看板だけが、むなしくクワイ川に浮かんでいた。
多くの命を犠牲にした「夢の実現」はかくして潰えた。
しかしこの事件にはもう一つの後日談がある。昨年九月三日の東京新聞に「『死の鉄道』へ贖罪の人生」という大見出しの記事が掲載され、ドキュメンタリー映画「クワイ川に虹をかけた男」が好評。という紙面を読み、とってあったのを思い出した。元日本兵永瀬隆氏の体験をもとにこの泰緬鉄道の実情をもう一つの側面から捉えたドキュメンタリー映画の紹介だった。永瀬氏は当時通訳兵として日本軍の捕虜の扱いの残虐さをつぶさに見、人間のすることではないと忘れられず、戦後処理を放置する政府に憤りを感じ、贖罪を志した。海外渡航が許されるや、現地を再三訪れて捕虜たちの霊を慰め、私財をなげうって、元捕虜と日本側関係者の和解の再会を実現。タイの学生向けの奨学基金も設けられ二〇一一年九十三歳で倉敷市で亡くなられたという。戦争とは何なのか、新年早々考えさせられた。
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