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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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草の戸随想
十月 ⑴小伝馬町界隈         
  
天災は避けようがないのが恐ろしいが、人災も場合によっては避けようがなく、大きな被害となる。いま私の住んでいる日本橋近辺は、江戸時代に、大きな火災に何度もあい、そのたびに、町全体が幕府の取り決めで移住して新しい土地で新しい街づくりをしたりしている。散歩していると、ときどき道端にそんなことを説明する案内版が目につく。
木と紙の住まいの簡便さには、古来から日本人のこうした天災や人災に立ち向かう知恵と感覚のしたたかさや柔軟さが籠められていることを、いまさらながら気づかされるのである。
民族の生活感覚の原点は、やはりその地の気候風土や天災に負うところが多いのはあたりまえかもしれないが、それ以外にも、日本では「地震、雷、火事、おやじ」などという言いまわしがある。狭い土地に人がひしめく都市では、火事はやはり恐ろしい。
おやじが恐ろしいかどうかは、今日では、このおやじの威嚇は、実は、虎の皮を被る狐のパフオーマンスみたいなもんだった、ということがばればれで、いまや死語に近いものになっている。

千代田区やお隣の文京区は、もとはお膝元に近く、武家の家や大名屋敷も多かったのだろうが、北の端の岩本町から、水天宮通りと江戸通りが交差しているあたりは伝馬町で、小伝馬と大傳馬にわかれている。目と鼻のさきは日本橋だ。いま地下鉄の日比谷線が通っているが、この界隈は、江戸時代は大きな牢獄があった場所だそうである。
およそ二六〇〇坪ほどの牢獄屋敷は、時代小説などにも登場しているかもしれないが練塀(瓦と煉り土を交互に積み上げててっぺんを瓦で葺いた土塀)で囲われ、堀がめぐらされていたらしい。明治八年、市谷監獄ができるまで使われていた。刑場も同じ場所にあり、岩本町から神田の方へ行く途中には練塀町という町名も残っている。
やはり時代劇にしばしば登場する八丁堀も、さほど遠くない。八丁堀は、今は埋め立てられてしまっているが、一帯はまた「東海道中膝栗毛」で名高い弥次郎平衛と喜多八が住んでいたところでもある。
俄かに涼しくなった九月後半の雨上がりの朝、小伝馬町のほうへ歩いてゆき、こじんまりした御寺に行きついた。何気なく入っていくと、庭の片隅に供花や香華に囲まれたお堂があり、ひとりの御老体が掃除をしておられた。近づいて見ると、「江戸伝馬町処刑場跡」という碑がたっていて、お堂の前に吉田松陰などの名をしるした札が並べられている。ご挨拶をされたので、いろいろお話を伺った。
お寺の名は大安楽寺、ご老人は元住職で、今は御子息に譲られたが、祖父の代に京都から来られ、以来代々このお寺を守ってこられたという。
私が京都から来たとあいさつすると、その方も京都生まれと云われ、たいへん懐かしがられた。現在九十歳、昭和三年のお生まれで、祖父の代にこの地に来た、と云われる。
あとで調べてみると、開祖は六本木に今もある五大山不動院大僧正山科俊海師とある。先ほどの老人が語っておられた祖父というのはこの俊海師のことであろうか。
お寺の創建は明治八年ということなので、年齢的に考えると曾祖父でいられたのかもしれない。お堂の規模は大きくないが、関東大震災で堂宇が消失、昭和四年に再建されたとあるから、もとはもっと大きかったのかもしれない。由緒あるお寺とわかった。
創建にまつわるいろいろな話も残っている。牢屋敷が市谷監獄に移転してからは、その跡地はここで多くの死刑囚が処刑されるまで収監されていた場所として忌みきらわれ、荒れ果てていたらしい。人けのない跡地の中で燐火が燃えている、という噂がたち、それを知った山科俊海師は慰霊のため、お御堂を創建する志を抱かれた。当時の財界人安田善次郎、大倉喜八郎の二人がそれに力をかされ、寄進された浄財で、大安楽寺が創建された、という。「処刑の地」という碑も立っている。
安政の大獄(一八五八年~五九年)で死罪となり、処刑されたのは吉田松陰のほか、福井藩士橋本左内、水戸藩の家老安藤帯刀、さらに頼山陽の三男、頼三樹三郎、小浜藩士梅田雲濱など、九名。それぞれ斬首、あるいは切腹、獄門、獄死という悲惨な最期を遂げた。松陰や頼三樹三郎は斬首という無惨な刑で、刑場となった小塚原は、小伝馬町より北にある荒川区のいま南千住と云われる場所にある。ここでは、腑分け(解剖)などもおこなわれ、「解体新書」で知られる杉田玄白なども立ち会ったことがあるという。遺体は後始末もろくにせず、捨て置かれるのが通常で、松陰の遺体も、小塚原刑場に捨て置かれたのを、弟子たちが引き取りを願って世田谷に社を立てて墓地にした。そこはいま「松陰神社」という名称で、神社となって守られている。同じ時期、死罪にはならなかったものの、政局を批判した学者、浪士、藩士など百人余が、幕府によって重い処罰を受けている。頼三樹三郎は、父山陽がもっとも嘱望していた息子であったというから、痛ましい限りである。

世田谷の松陰神社には、境内に、萩市にある松下村塾を模した建物も建てられている。神社ではあるが、松陰のほかに頼三樹三郎の墓もあり、明治の元勲と云われる人たちの寄進した石灯篭などが並んでいる。
我が家の孫が七五三を祝ったのはこの神社だった。大きな神社はすでに予約がいっぱいで、近所の新田神社は、足利と畠山が仕掛けた姦計で多摩川で溺死という無念な死を遂げた英雄新田吉興が祭神なので、ときには恐ろしいたたりをする神様、との言い伝えもある。孫の祖父になる夫の先祖が畠山の系列だから、祭神の怨霊にたたられるかも、とこじつけて、たまたま空いていたここを選んだ。松陰神社の隣は豪徳寺で、井伊直弼の墓がある。かつて私の主治医だった脳神経内科の長尾毅彦先生は、フランスの前衛詩人ジャン・コクトー大好きというユニークな先生だったが、歴史にも詳しく、松陰神社で七五三参りをした話をすると「こんどは豪徳寺に行っておいでよ。敵同士、隣あってるんだよ。井伊直弼とね」と教えてくれたのを思いだす。豪徳寺はおなじ世田谷区にある曹洞宗の大きな寺で、井伊家の菩提寺なのである。

ペリーの黒船が三月に浦和にやって来た嘉永六年、小田原で地震があり、同じ年の夏に年号は安政と変わる。そして七月にはマグネチュード6を超える大地震が東海地方に発生した。このときは伊賀でも家があちこと倒れたことがあった、うちは倒れなかった。とこどものころ祖母が話していたのを聞いたことがある。
おなじ年の暮には、南海地震が紀州を襲い、津波を救った稲むらの火のエピソードは、小学校の修身の本などで習い、感心したのが記憶に焼き付いている。明けて安政二年の江戸地震では、下町で多数の家が倒壊し、火災もともなって死者が多くでた。吉原の大門では、遊女や客が殺到して地獄の様相を呈したという。
沿岸地方では外国船が出没、内外共に多事多難で、幕府の政情は益々不穏になり、尊皇攘夷論をはじめ日本中が大荒れに荒れる。
そして安政が、万延と替わった一八六〇年、春三月、権力側の中心人物として大きな力をふるった大老井伊直弼が、桜田門外で水戸と薩摩の浪士に襲われて命を落とした。はたして尊皇がよかったのか、攘夷がよかったのか。
だが江戸では
―井伊掃部頭(いい鴨と)雪の寒さに首を絞め―
などという狂歌が作られて流行ったという。
伊勢へのお蔭参りの流行もこの時期で、不安に揺れながら日々を過ごし、世の中がどうなろうと生きていかねば、と江戸のひとたちは、はらを据えていたのかもしれない。いつの時代も、どの国でも、人間には根っこのところで、生きぬいていこうとする力がそなわっていて、なんとかこんにちまで、絶えることなく歴史を築いてこられたのかも、と最近つくづく思うのである。
    ⑵幸福論
「悪い天気の日はいい顔をすること」と云ったのはフランスの哲学者アランだが(「幸福論」九十一)そして幸福こそ万人が生涯求め続ける目標の最たるものと云っても言い過ぎではないと思う。古来から哲学が追い続けてきたのも、究極的にはそれである。
だが、そもそも「幸福」という言葉が明治になる前の日本にあったかどうか、私は知らない。ちなみに「哲学」という用語も明治の翻訳語であろう。明治の開国で、日本は世界の文明社会に門戸を開いたが、それぞれ数千年の歴史を持つ異文化を取り入れ、消化するのは大変なことだったろうと思う。
江戸時代から蘭学だけは開かれていたから、まったく暗闇というわけではなかったにしても、比較的短時間の間に、あれだけの知的遺産を、自家薬籠中に、とまではいかぬまでも、ある程度消化したのだから、明治の知識人たちのすぐれた頭脳と、渾身の力を籠めて吸収することに賭けたエネルギーと志の高さには感嘆する。これによって日本人はどれほど知的分野を広げることができたか、測り知れないものがある。
科学の分野もさることながら、人文系の世界での言語の転換、これはもう和訳、というより造語の世界で、これなくしては、科学ももちろん確実に広く摂取することはむずかしかったわけだから、大変な難事業だったと思う。
数え切れないほどの外来の抽象概念に、訳語があてはめられて一般化したことは、紛れもない事実で、おかげで科学や人文系学問の方面ばかりでなく、日常語でも日本語は、はかり知れないほど豊かになった。一つ一つ掘り出して来歴を調べると、なかなか興味深いことがわかると思う。もともと日本語は、他国に類のないカタカナ、ヒラカナ、漢字という三つのルートを持っているから、それだけでも二十六文字くらいしか持たない国に比べると、融通無碍な活用ができるという利点はあるかもしれないが。
丸谷才一先生によれば「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して、口語体を提供したこと」という。「かれらはその事業を見事にやってのけた。・・文明は文体を作る仕事をまるごと小説家にゆだねたのである」と。そして学者や、政治家や、宗教家はその作業にはかかわっていないとし、「歴史家?ゐなかったんじゃないか、よくは知らないけど、学者?文章を書かなかったんだろう、たぶん」というような調子で皮肉を飛ばしておられて思わず噴き出した。
ともあれ森鴎外をはじめとして、多くの作家たちのほかに、在野の福沢諭吉らの功績も大きかったに違いない。

話を「幸福論」に戻そう。アランはフランス近代の哲学者として、多の優秀な弟子たちを世に送り出したが、自身は生涯パリの有名中学の一教師として生きた。いわゆるドイツ観念論とは別の路線で、プラトンやデカルトを徹底的に学んだその理論は強靭で繊細、平易な文章で書かれているので、つい見逃しがちのすぐれたな知恵に溢れている。
フランス文学を専攻した若いころは、まことに思慮が浅く生意気で、アランの言うことが気に入らなかった。「滅私奉公」の時代を潜り抜けてきた世代で、今考えると、日本人の脳味噌には、幸福という言葉を正当に主張するのは罪悪、という感覚が染みついていて、私などもそれに大いにかぶれていた気がする。
教育界は儒教精神がまだまだ根強く息づいていたし、明治から大正昭和と日本文学はどちらかというと、白樺派などに代表されるトストイの人道主義や、ドストエフスキーの暗い人間認識等を取り入れた深刻ぶった作品がもてはやされ、それがえらいみたいな風潮があった。

しかしそのころフランス文学者で人文科学研究所の教授だった桑原武夫先生は、ご自分のアラン研究の論文が、パリの学会で高い評価を受けたこしばしば教室でも自慢された。そして私が在籍していたフランス文学クラスの中で、優秀な学生の多くはアランを信奉していた。
そして、アランが毎日二頁を目安として生涯書き続けたプロポの言説は、いまだに新しく、時代を何十年も先取りしていたことをわたしは最近発見した。
もともとデカルトに深く学んだ人だけに、心と体のつながりには早くから注目していたのではあろうが、哲学の分野を、さらに押し広げて、人間の精神と体の見逃せない関連につねに注目し、生きていく上でのこころとからだの絶妙なバランスを、近代医学の実証などもとりいれて見いだそうとしていたらしいことがわかる。
たとえばプロポのなかに、躁鬱病をとりあつかった「悲しいマリー」という項目がある。それはある心理学の教授のひとりが附属病院でみつ
アランは、この話はもうまるで忘れられてしまったが、覚えておく価値がある、と前置きしたうえで、次のようなコメントを書き記す。
「この娘は時計のような正確さで、一週間は快活、次の一週間は悲しいのだった」つまり快活な時は彼女にとって世の中のすべてがバラ色に見え、彼女は幸福感に包まれる。それにひきかえ悲しい時は全てが灰色の雲にとざされる。そしてこれが医学の検証によると彼女の体内の血球の増減と関係があるというのだ。若いときは読んで、なにをインチキなことを言って、悲しいのは現実が面白くないからで、血球などと関係ない、と思ったのは実にあさはかだった。これは卓説で、この年になって私はアランの賢さに感心し、納得しようと努めている。鬱の時は、私の血球が減っているだけ、と考えると気が休まるというものである。
ただし、これはアランの生きた二〇世紀前半に比べて格段に進歩した現代医学の血球学とは別の次元の問題であることは、はっきりさせておきたいと思う。私の夫は白血病で亡くなっている。難病の血液癌の恐ろしさは、ふつうの健康体の人間の血球の数値云々とは、別の話であることだけはお断りしておきたい。
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小伝馬町界隈

草の戸随想248号10月 小伝馬町界隈         
  
天災は避けようがないのが恐ろしいが、人災も場合によっては避けようがなく、大きな被害となる。いま私の住んでいる日本橋近辺は、江戸時代に、大きな火災に何度もあい、そのたびに、町全体が幕府の取り決めで移住して新しい土地で新しい街づくりをしたりしている。散歩していると、ときどき道端にそんなことを説明する案内版が目につく。
木と紙の住まいの簡便さには、古来から日本人のこうした天災や人災に立ち向かう知恵と感覚のしたたかさや柔軟さが籠められていることを、いまさらながら気づかされるのである。
民族の生活感覚の原点は、やはりその地の気候風土や天災に負うところが多いのはあたりまえかもしれないが、それ以外にも、日本では「地震、雷、火事、おやじ」などという言いまわしがある。狭い土地に人がひしめく都市では、火事はやはり恐ろしい。
おやじが恐ろしいかどうかは、今日では、このおやじの威嚇は、実は、虎の皮を被る狐のパフオーマンスみたいなもんだった、ということがばればれで、いまや死語に近いものになっている。

千代田区やお隣の文京区は、もとはお膝元に近く、武家の家や大名屋敷も多かったのだろうが、北の端の岩本町から、水天宮通りと江戸通りが交差しているあたりは伝馬町で、小伝馬と大傳馬にわかれている。目と鼻のさきは日本橋だ。いま地下鉄の日比谷線が通っているが、この界隈は、江戸時代は大きな牢獄があった場所だそうである。
およそ二六〇〇坪ほどの牢獄屋敷は、時代小説などにも登場しているかもしれないが練塀(瓦と煉り土を交互に積み上げててっぺんを瓦で葺いた土塀)で囲われ、堀がめぐらされていたらしい。明治八年、市谷監獄ができるまで使われていた。刑場も同じ場所にあり、岩本町から神田の方へ行く途中には練塀町という町名も残っている。

やはり時代劇にしばしば登場する八丁堀も、さほど遠くない。八丁堀は、今は埋め立てられてしまっているが、一帯はまた「東海道中膝栗毛」で名高い弥次郎平衛と喜多八が住んでいたところでもある。

俄かに涼しくなった九月後半の雨上がりの朝、小伝馬町のほうへ歩いてゆき、こじんまりした御寺に行きついた。何気なく入っていくと、庭の片隅に供花や香華に囲まれたお堂があり、ひとりの御老体が掃除をしておられた。近づいて見ると、「江戸伝馬町処刑場跡」という碑がたっていて、お堂の前に吉田松陰などの名をしるした札が並べられている。ご挨拶をされたので、いろいろお話を伺った。
お寺の名は大安楽寺、ご老人は元住職で、今は御子息に譲られたが、祖父の代に京都から来られ、以来代々このお寺を守ってこられたという。
私が京都から来たとあいさつすると、その方も京都生まれと云われ、たいへん懐かしがられた。現在九十歳、昭和三年のお生まれで、祖父の代にこの地に来た、と云われる。
あとで調べてみると、開祖は六本木に今もある五大山不動院大僧正山科俊海師とある。先ほどの老人が語っておられた祖父というのはこの俊海師のことであろうか。
お寺の創建は明治八年ということなので、年齢的に考えると曾祖父でいられたのかもしれない。お堂の規模は大きくないが、関東大震災で堂宇が消失、昭和四年に再建されたとあるから、もとはもっと大きかったのかもしれない。由緒あるお寺とわかった。

創建にまつわるいろいろな話が残っている。牢屋敷が市谷監獄に移転してからは、その跡地はここで多くの死刑囚が処刑されるまで収監されていた場所として忌みきらわれ、荒れ果てていたらしい。人けのない跡地の中で燐火が燃えている、という噂がたち、それを知った山科俊海師は慰霊のため、お御堂を創建する志を抱かれた。当時の財界人安田善次郎、大倉喜八郎の二人がそれに力をかされ、寄進された浄財で、大安楽寺が創建された、という。
「処刑の地」という碑も立っている。
安政の大獄(一八五八年~五九年)で死罪となり、処刑されたのは吉田松陰のほか、福井藩士橋本左内、水戸藩の家老安藤帯刀、さらに頼山陽の三男、頼三樹三郎、小浜藩士梅田雲濱など、九名。それぞれ斬首、あるいは切腹、獄門、獄死という悲惨な最期を遂げた。松陰や頼三樹三郎は斬首という無惨な刑で、刑場となった小塚原は、小伝馬町より北にある荒川区のいま南千住と云われる場所にある。ここでは、腑分け(解剖)などもおこなわれ、「解体新書」で知られる杉田玄白なども立ち会ったことがあるという。遺体は後始末もろくにせず、捨て置かれるのが通常で、松陰の遺体も、小塚原刑場に捨て置かれたのを、弟子たちが引き取りを願って世田谷に社を立てて墓地にした。そこはいま「松陰神社」という名称で、神社となって守られている。同じ時期、死罪にはならなかったものの、政局を批判した学者、浪士、藩士など百人余が、幕府によって重い処罰を受けている。頼三樹三郎は、父山陽がもっとも嘱望していた息子であったというから、痛ましい限りである。
世田谷の松陰神社には、境内に、萩市にある松下村塾を模した建物も建てられている。神社ではあるが、松陰のほかに頼三樹三郎の墓もあり、明治の元勲と云われる人たちの寄進した石灯篭などが並んでいる。
我が家の孫が七五三を祝ったのはこの神社だった。大きな神社はすでに予約がいっぱいで、近所の新田神社は、足利と畠山が仕掛けた姦計で多摩川で溺死という無念な死を遂げた英雄新田吉興が祭神なので、ときには恐ろしいたたりをする神様、との言い伝えもある。孫の祖父になる夫の先祖が畠山の系列だから、祭神の怨霊にたたられるかも、とこじつけて、たまたま空いていたここを選んだ。松陰神社の隣は豪徳寺で、井伊直弼の墓がある。かつて私の主治医だった脳神経内科の長尾毅彦先生は、フランスの前衛詩人ジャン・コクトー大好きというユニークな先生だったが、歴史にも詳しく、松陰神社で七五三参りをした話をすると「こんどは豪徳寺に行っておいでよ。敵同士、隣あってるんだよ。井伊直弼とね」と教えてくれたのを思いだす。豪徳寺はおなじ世田谷区にある曹洞宗の大きな寺で、井伊家の菩提寺なのである。

ペルーの黒船が三月に浦和にやって来た嘉永六年、小田原で地震があり、同じ年の夏に年号は安政と変わる。そして七月にはマグネチュード6を超える大地震が東海地方に発生した。このときは伊賀でも家があちこと倒れたことがあった、うちは倒れなかった。とこどものころ祖母が話していたのを聞いたことがある。
おなじ年の暮には、南海地震が紀州を襲い、津波を救った稲むらの火のエピソードは、小学校の修身の本などで習い、感心したのが記憶に焼き付いている。明けて安政二年の江戸地震では、下町で多数の家が倒壊し、火災もともなって死者が多くでた。吉原の大門では、遊女や客が殺到して地獄の様相を呈したという。
沿岸地方では外国船が出没、内外共に多事多難で、幕府の政情は益々不穏になり、尊皇攘夷論をはじめ日本中が大荒れに荒れる。
そして安政が、万延と替わった一八六〇年、春三月、権力側の中心人物として大きな力をふるった大老井伊直弼が、桜田門外で水戸と薩摩の浪士に襲われて命を落とした。はたして尊皇がよかったのか、攘夷がよかったのか。
だが江戸では
―井伊掃部頭(いい鴨と)雪の寒さに首を絞め―
などという狂歌が作られて流行ったという。
伊勢へのお蔭参りの流行もこの時期で、不安に揺れながら日々を過ごし、世の中がどうなろうと生きていかねば、と江戸のひとたちは、はらを据えていたのかもしれない。いつの時代も、どの国でも、人間には根っこのところで、生きぬいていこうとする力がそなわっていて、なんとかこんにちまで、絶えることなく歴史を築いてこられたのかも、と最近つくづく思うのである。
     


幸福論 

「悪い天気の日はいい顔をすること」と云ったのはフランスの哲学者アランだが(「幸福論」九十一)そして幸福こそ万人が生涯求め続ける目標の最たるものと云っても言い過ぎではないと思う。古来から哲学が追い続けてきたのも、究極的にはそれである。
だが、そもそも「幸福」という言葉が明治になる前の日本にあったかどうか、私は知らない。ちなみに「哲学」という用語も明治の翻訳語であろう。明治の開国で、日本は世界の文明社会に門戸を開いたが、それぞれ数千年の歴史を持つ異文化を取り入れ、消化するのは大変なことだったろうと思う。
江戸時代から蘭学だけは開かれていたから、まったく暗闇というわけではなかったにしても、比較的短時間の間に、あれだけの知的遺産を、自家薬籠中に、とまではいかぬまでも、ある程度消化したのだから、明治の知識人たちのすぐれた頭脳と、渾身の力を籠めて吸収することに賭けたエネルギーと志の高さには感嘆する。これによって日本人はどれほど知的分野を広げることができたか、測り知れないものがある。
科学の分野もさることながら、人文系の世界での言語の転換、これはもう和訳、というより造語の世界で、これなくしては、科学ももちろん確実に広く摂取することはむずかしかったわけだから、大変な難事業だったと思う。
数え切れないほどの外来の抽象概念に、訳語があてはめられて一般化したことは、紛れもない事実で、おかげで科学や人文系学問の方面ばかりでなく、日常語でも日本語は、はかり知れないほど豊かになった。一つ一つ掘り出して来歴を調べると、なかなか興味深いことがわかると思う。
もともと日本語は、他国に類のないカタカナ、ヒラカナ、漢字という三つのルートを持っているから、それだけでも二十六文字くらいしか持たない国に比べると、融通無碍な活用ができるという利点はあるかもしれないが。
丸谷才一先生によれば「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して、口語体を提供したこと」という。「かれらはその事業を見事にやってのけた。・・文明は文体を作る仕事をまるごと小説家にゆだねたのである」と。そして学者や、政治家や、宗教家はその作業にはかかわっていないとし、「歴史家?ゐなかったんじゃないか、よくは知らないけど、学者?文章を書かなかったんだろう、たぶん」というような調子で皮肉を飛ばしておられて思わず噴き出した。
ともあれ森鴎外をはじめとして、多くの作家たちのほかに、在野の福沢諭吉らの功績も大きかったに違いない。

話を「幸福論」に戻そう。アランはフランス近代の哲学者として、多の優秀な弟子たちを世に送り出したが、自身は生涯パリの有名中学の一教師として生きた。いわゆるドイツ観念論とは別の路線で、プラトンやデカルトを徹底的に学んだその理論は強靭で繊細、平易な文章で書かれているので、つい見逃しがちのすぐれたな知恵に溢れている。
フランス文学を専攻した若いころは、まことに思慮が浅く生意気で、アランの言うことが気に入らなかった。「滅私奉公」の時代を潜り抜けてきた世代で、今考えると、日本人の脳味噌には、幸福という言葉を正当に主張するのは罪悪、という感覚が染みついていて、私などもそれに大いにかぶれていた気がする。
教育界は儒教精神がまだまだ根強く息づいていたし、明治から大正昭和と日本文学はどちらかというと、白樺派などに代表されるトストイの人道主義や、ドストエフスキーの暗い人間認識等を取り入れた深刻ぶった作品がもてはやされ、それがえらいみたいな風潮があった。

しかしそのころフランス文学者で人文科学研究所の教授だった桑原武夫先生は、ご自分のアラン研究の論文が、パリの学会で高い評価を受けたことを、しばしば教室でも自慢された。そして私が在籍していたフランス文学クラスの中で、優秀な学生の多くはアランを信奉していた。
そして、アランが毎日二頁を目安として生涯書き続けたプロポの言説は、いまだに新しく、時代を何十年も先取りしていたことをわたしは最近発見した。
もともとデカルトに深く学んだ人だけに、心と体のつながりには早くから注目していたのではあろうが、哲学の分野を、さらに押し広げて、人間の精神と体の見逃せない関連につねに注目し、生きていく上でのこころとからだの絶妙なバランスを、近代医学の実証などもとりいれて見いだそうとしていたらしいことがわかる。
たとえばプロポのなかに、躁鬱病をとりあつかった「悲しいマリー」という項目がある。それはある心理学の教授のひとりが附属病院でみつ
アランは、この話はもうまるで忘れられてしまったが、覚えておく価値がある、と前置きしたうえで、次のようなコメントを書き記す。
「この娘は時計のような正確さで、一週間は快活、次の一週間は悲しいのだった」つまり快活な時は彼女にとって世の中のすべてがバラ色に見え、彼女は幸福感に包まれる。それにひきかえ悲しい時は全てが灰色の雲にとざされる。そしてこれが医学の検証によると彼女の体内の血球の増減と関係があるというのだ。若いときは読んで、なにをインチキなことを言って、悲しいのは現実が面白くないからで、血球などと関係ない、と思ったのは実にあさはかだった。これは卓説で、この年になって私はアランの賢さに感心し、納得しようと努めている。鬱の時は、私の血球が減っているだけ、と考えると気が休まるというものである。

ただし、これはアランの生きた二〇世紀前半に比べて格段に進歩した現代医学の血球学とは別の次元の問題であることは、はっきりさせておきたいと思う。私の夫は白血病で亡くなっている。難病の血液癌の恐ろしさは、ふつうの健康体の人間の血球の数値云々とは、別の話であることだけはお断りしておきたい。
草の戸随想 247号 9月号          高沢英子 
   再会 ー夏の嬬恋でー
 梅雨が明けて間もなくから、きびしい猛暑が続いている。日本中例外なく暑くなり、東北や北海道でさえ三十度を超える気温だと伝えられて驚いた。
そればかりか、地球の至るところが宇宙からの熱波に包まれ、アメリカ、カリフォルニアの山火事は収まる気配がなく、ポルトガル南部のリゾート地の山火事は、古くからのキリスト教国らしく「黙示録的赤い炎」などという形容詞付きで報じられ、ている。家を失い、命を落とした人も少なくないという。 

娘の家族とわたしは、今年夏休みには、嬬恋に行くことを予定していた。わたしは、できれば以前嬬恋で親しくしていた広瀬尚子さんとも久しぶりに会いたいと思い、あらかじめメールで問い合わせると、七月末から八月初旬を予定しているという返事が届いた。
以前彼女が一人で切り盛りしていた北軽井沢のカフェはもう閉めて、建物は息子さんに譲り、その後彼女と娘さんたちは、昔家族が持っていた北軽井沢の旧大学村の古い別荘に滞在するのがならわしで、尚子さんは今年も最近結婚したご主人と一緒に行き、娘さんと合流する予定、ということだった。
七月末、孫の学校行事や、その他それぞれ抱えるもろもろの雑用を片付けて日程を調整し、月末には数日をあてられることになり、二十七日金曜日、出発は夕刻五時頃、途中で夕食を取ろうということに決めた。
7月三十一日は、火星が地球に大接近するというニュースが伝えられていた。大接近とはいえ、五千七百五十数万キロメートル以上という気の遠くなるほどの距離だが、それでも、平常の六倍位の大きさに輝く、というので、天体望遠鏡も持っていてこの方面には多少マニアの娘の夫は、同行して空気の澄んだ嬬恋の夜空にそれを見る事を楽しみにしていたが、思いもよらぬ台風襲来の知らせと、突発的に舞い込んだ仕事が重なり断念した。
 広瀬尚子さんは二年前、ピースボートで旅行中に知り合った九州の男性と結婚し、相手の方の家が門司なので、そこに移り住んだ。北軽のカフェを閉めてから暫らく東京にも住んでいられたが、なかなか会う機会がないままに、遠い処に行ってしまわれたのである。
嬬恋の家についた翌朝、早速彼女が滞在している別荘を訪ねて行った。ほぼ七年ぶりの再会だが、既に八〇歳を超えた彼女は、あいかわらず、びっくりするほど若々しい。はじめてお会いするご主人は八歳年下ということだが、やはり年齢を感じさせない元気さで、いかにも九州男児らしい明るく豪放な方だった。この日合流するはずだった彼女の二人のお嬢さんは、予期していなかった家庭の都合や、台風による欠航続きで足止めされたため来ておられず、ひっそりした居間で話が弾んだ。
以前もこの欄で触れたが、新婚の夫婦お二人で始めた日本古典の読書は、その後もずっと続けておられるという。
今読んでいるのは、彼女のお嬢さんの御主人である作家池澤夏樹さんから、結婚祝いに贈られた池澤さん個人編集の日本文学全集 第九巻「平家物語」。全巻現代語訳で、訳者は数々の受賞歴で多彩な顔を持つ才人古川 日出男氏だ。
そろそろ後半 十一の巻、壇ノ浦の戦のくだりにさしかかったところで、「実に面白くて、奈良が舞台のところなどこれまで知らずに驚いたことがいっぱいあったけれど、壇ノ浦の戦は住んでいるところが舞台なのよ」と顔を輝かせる。話は尽きなかった。新婚のお二人は互いに気がよく合うと楽しそうに話された。
理解ある御主人のもとでカフェ時代から始めていられたさまざまな自然運動のワークショップや講演会、とくに力を入れていられたスコットランド、フィンドフォーンの奇跡の植物ワールドの紹介と啓蒙運動の一端ともなるツアー計画など、一貫して九州でも粘り強く続けていられると聞き、その実行力と信念には頭が下がるばかりだ。
東京に帰ってきて、わたしは図書館で尚子さんご夫婦が読んでいられる九百頁近い日本文学全集の「平家物語」を借りてきた。そして「平家物語」が大変な書物であることをあらためて実感した。訳者の古川氏は、前書きで、正確な著者不明のこの本は、複雑な成り立ちで多くの語り手の手で書き加えられ、異本も多い。それだけに内容に厚みがあり豊饒で、ある意味無節操。だからこそ「わたしは全身全霊でこの物語を訳した。」と述懐している。
でもつづけておたしはかつて畏友杉本秀太郎が、やはり「平家物語」にとりつかれて書いた本を持っている。京都の旧家生まれのかれは、好んで散歩したが、そのころ、来る日も来る日も毎日ポケットに平家物語を入れて歩き回った、と聞いたことがある。かれの「平家物語」は現代語訳でなく、いわば読みながらの感懐を、あらん限りの博捜ぶりを加えて書いたもので、一九八八年から九六年まで、画家の安野光雅氏の挿絵付きで講談社の月刊誌「本」に発表され、本となって出版された。四百数十ページに及ぶ書物で、大佛次郎賞を受賞している。
「平家を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる。身じろぎしておもむろに動き出すものがある・・・」というかれ独特の文ではじまる七年にも及ぶずしりと重い随想である。
フランス文学専攻で、大学で教鞭をとり、アナトールフランスの「赤い百合」やメーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」などの訳書や、アランの研究書を持つが、詩人でもあり,多くのエッセー集も出し、なかでも「太田垣蓮月尼」に関する著作や「平家物語」は彼畢生の作品であったと思われる。
思えば若いころかれがたびたびくれた手紙は、独特の感性と表現に充
ちた素晴らしいものだった。わたしは自分の才能の乏しさと学識の浅さに絶望し、大いに焦らされたものである。戦後の学制改革で、余儀なく新制に移行させられた金沢の第四高校一年在学の経験を持つが、四高は奇しくも私の夫や、伊賀の友人西村徹さんの出身校でもあった。
これも余談だが、平家の一門で、皮肉にも頼朝助命に大きな役割を果たした平宗清は、平家滅亡のあと柘植に住み、代々福地姓を名乗ったと伝えられ、杉本さんの本にもその言及がある。かれは菊山當年男さんの著書「はせを」もよく読みこんでいた。実は、わたしの母方の曾祖母は福地家の出だが、当時は詳しいことは何も知らず、そんな話はしたことがない。
また、かつての文学仲間の長谷川 佳さんのお嬢さんは、東大紛争時代に学生同士で知り合った国文学専攻の大学院生近藤氏と結婚。かれは今はすたれかかっている「平曲」という平家物語語りの分野の研究者で、演奏もその道の師について学ばれ、「平曲」保存に力を入れておられると聞いていた。私は長谷川さんに誘われ、一度その女婿の近藤氏が主宰する演奏会で日本でも数少ないという師匠の「平曲」を聞いたことがある。巷間伝えられる平家琵琶とは一味違う地味な謡いぶりであった。徒然草もこれに触れて、東国生まれの盲人生佛(しょうぶつ)という僧が語りはじめたものと書いているとか。わたしはその会で師匠と近藤氏が演じられた平曲のC.Dをいまも持っている。
だが、長谷川 佳さんも、近藤氏も、杉本秀太郎も、もう世にない。まさに「諸行無常」。杉本さんにはそれしか言えないのか、と笑われそうな感懐を漏らしてしまう。ならば「そのとき微かな胸騒ぎが絶えないのは持怪(もっけ)の幸い」とでもいおうか。しかし実はこれを書いていたときかれは私的には家事多難の大きな重荷を背負っていたことをわたしは別の友人から聞いていた。かれは「平家」とー気永に、ねんごろに、気まぐれに、付き合いながらーどうやらそれを乗り越えたのである。
かれがその「平家物語」の巻末に「名残の空にうっすらとうかんでくる」として引用した太田垣蓮月の一首をしるして、この稿を閉じたいと思う。
ーうつり行はじめも果もしらくものあやしきものは心なりけりー
わが街かわら版 九月      高沢英子
 ⑫ アリス・マンロー 「小説のように」㈡
 ヨーロッパで意識の深層を深く掘り下げた文学が生まれたあと、アメリカやカナダの広大な新大陸に多くの民族がひしめく多様な社会を、感傷を削ぎ落とした文体でくっきり描き出した女性作家が現われた。一九三一年カナダ生まれのアリス・マンローである。生涯短編小説だけをこつこつ書き続け、二〇一三年ノーベル文學賞を受賞した。
二度の結婚で二人の娘を育てつつ執筆、わが国ではあまり知られていないが、近年翻訳家の小竹由美子氏によって次々訳出され、新潮社から数冊出版された。カナダのチェホフという声もあるとか。
アイルランド移民だった先祖のルーツを辿る作品から、一九六〇年代後半のヒッピーたちの生き様など、その小説世界は多彩である。
言葉は、まず使い手に操られ、受け取る側の心の中でこね回される。会話は常にすっきり進むわけではなく「話せばわかる」というのは、閉鎖社会の独断的な誠意と信念に基づく幻想に過ぎない。多様な世界に生きる人間が、他者の意見を必ずまともに受け入れるとは考えられないのが現実である。作品はそれを実に鮮やかに浮かび上がらせる。心の深淵が、絡み合い錯綜する会話ばかりでなく、ときに正体不明の沈黙も浮遊、思いがけない裂け目や破局に導かれる。深くじんわり心にこたえる結末。「こういう人生もあるわけよ」。という作者の声だけが残る。     
登場人物の行動は多元的で、時間や空間を超え、多くの情景が交錯し、読者はあたかもシンフォニーのように響き合う小説世界に入り込む。やがてほんわりと幕が引かれる。人物の風采や外見をさりげない筆致で執拗に細かく書き込むことも忘れない。作品のひとつに「小説のように」というタイトルをつけているが、それこそ彼女の描く世界そのものかもしれない。三十頁で他の作家の一冊分以上のことを書くと言われるのも頷ける。
引退を表明しつつも二〇〇九年ソーニャ・コワレフスカヤの死の数日前の日々を描いた「あまりに幸せ」を発表。因みに世界最初の大学教授と言われたこの薄命の女性数学者は、かつて野上弥生子の憧れの女性のひとりであり、伝記の翻訳もしている、というのも興味深い。

石の鐘

草の戸随想 246号 8月号         高沢英子
   「石の鐘」

六月初め東京都美術館で、日本リアリズム写真集団主催の恒例の「視点展」が開かれた。この展覧会は、これまですでに四十六回を数え、今年度は、全国から自信作が三千点余寄せられたと聞いた。  
 力作揃いのなかから百五十数名の写真家の作品七百点余のモノクロとカラー写真が選ばれた。
そして今回、私の所属している民主文学会の仲間の平山謙さんの作品も入選したと聞いたので、写真はからきし駄目ながら、観ることは好きなので、娘を誘って見に行った。事前に月刊「民主文学」誌に、「視点展」の感想批評めいたものを書きたいと、申し出て受け入れられていたので、平山さんの写真ばかりでなく、多くの作家の作品を興味深く見せて貰った。
展示作品は、さすがに玄人はだしの腕前で、戦後の日本人の日常ありのままの姿を写し取り、都市や風景を様々な視点でとらえ、おのずから時代や歴史の貴重な証言となっていると感じた。それは世代を超えて、誰にとっても心に沁みるものだった。

平山謙さん入選の作品は「二度と許さない」というタイトルで、古いお寺の鐘楼に、鐘の代わりに吊るされた大石の写真をめぐる三枚だった。
そもそもこの石が鐘楼に吊るされたのは、昭和十七年(一九四二年)の秋というから、七十五年前ということになろう。
 定年後、本格的に勉強した、という平山さんの写真の腕前は相当なもので、日頃から、彼が四季折々の風景や花木、土地の祭りなどを、独特の繊細な眼で捉えて撮影した写真は、息を呑む美しさなので、わたしはいつも見せてもらうたびにつくづく感心し、名前の通りの謙虚な人なので、はにかみながら見せてくれる手製で大事にしている私家版の写真集を、無理にせがんで貰ったりしてきた。
しかし、今回の作品は、視点がこれまでと違って、被写体に強い訴えと願いがこめられた物語が秘められているのが大きな特徴だった。タイトルそのものも「二度と許さない」という気迫のこもったもので、「石の鐘」の持ち主の強い意志を表現している。
 この鐘の代わりの巨大な石を吊るした鐘楼は、現在長野県信濃町の農村地帯の一集落に、昔からあった菩提寺、浄土真宗本願寺派の「称名寺」に在るという。かなり有名なのでご存知の方もあるかもしれないが、三枚の写真のうちメインの一枚は、鐘楼の太いがっしりした木の四本柱を支えている台石のひとつに、ぽつんと腰を掛け、目の前にひろがる村の風景をじっと見ている白髪の老女の後姿を配したものだ。老女の目の前には、今の日本ではもうあまり見られなくなった刈り入れの済んだ田畑が広がり、野に人影はなく、ところどころに、ぽつんぽつんと民家が木の間隠れに見えるだけだ。遠くに田畑を取りまくように連なっている森の樹々がなだらかな丘へとせりあがり、右手はるか彼方に、こんもりと小さな里山がある。昔懐かしい典型的な村の佇まいだ。鐘楼の傍に二抱えはあろうかと思われる大木の幹がぬっと写っている。
鐘楼の下では後姿だった老女が、もう一枚では鐘楼を背に、どこか遠い一点を見つめているような表情が大きく写し取られている。そして、あとの一枚は、仏壇を前にして袈裟をかけ、数珠を握りしめている僧侶姿の先ほどと同じ女性を写したものである。
このひとは、石の鐘を守っているこの「称名寺」の女性住職佐々木五七子(いなこ)さんである。昭和四年、この寺の住職の娘としてこの村に生まれ育ち、親子三代にわたって、住職として寺を守ってきた人である。八十九歳とは思えぬ性根の坐った表情ながら、多年の悲しみと諦念も秘めているかのような静かな眼でもある。
なぜ普通の梵鐘でなく石の鐘なのか。この「石の鐘」が持っている物語をもっと詳しく知りたくなり、町の観光課に電話すると、お寺に直接お話しください、と電話番号を教えられた。
お寺に電話すると、直ぐに住職の佐々木五七子(いなこ)さんが直接出られた。挨拶のあと、単刀直入に
「あなたは幾つ?」と聞かれ、答えると、ほぼ同世代ということで、女同士の話が弾んだ。
貧しい村では、彼女の幼友達の少年たちが何人も、満蒙開拓義勇団という美名のもとに、無計画な侵略政策に加担させられ故郷をあとに海を渡り、二度と戻ってこなかった。戦時中の少女時代に、大事な寺のシンボル、鐘を軍に供出しなければならなかった日の無念な光景を、七〇年経った今も、忘れたことはないという。
「いい音でねえ。遠く飯田の町まで聞こえたのよ」と悔しさをにじませるいな子さんである。
「鉄類の供出」「満蒙開拓義勇団」ーわたしにも似たような思い出がある。当時上野のまちでも、家の前の小溝に渡した鉄の溝蓋、銅や金属の雨どいから、火鉢、鍋窯、鉄瓶などの日用品のたぐい、はては床の間の置物に至るまで、鉄製品のすべてが没収徴収され、大砲や鉄砲の原料にされた。
たまに鉄の溝蓋など残している家があると、子供たちさえ「非国民」呼ばわりして、わざとガンガン音たてて踏み鳴らしたりした信じられないような時代。我が家でも、中土間の銅(アカ)の雨どいから鉄瓶、火箸の類までそっくり供出し、さらに庭池の石の上に置いていた等身大の鉄製の鶴や鷺、今でいうオブジェも抱えて持ってゆかれた。町会(チョウエ)のまえの広場で、即座にカーンカーンと音立てて、細い脚や胴体が叩き割られていたのを見た悲しい思い出がある。
まだ西と東にわかれていなかったころの上野のマンモス小学校の朝は、広い運動場でみんな集まっての朝礼で始まった。五か条の御誓文の前で、校長先生の訓示を整列して聞いたのである。日中戦争がもう始まっていた。満蒙開拓義勇団に入り、勇躍出発する高等科の少年何人かの訣別の挨拶もここで行われた。
空襲が激しくなる中での、竹槍訓練とバケツリレー。今の人はこれを聞いただけで信じられないと笑うが、話しているこちらもアホらしさに唇を噛む。これが現実だった。五七子師の幼馴染だけではなく、大好きだった小学校の担任の優しい女の先生も、満州に渡ったひとたちは二度と戻ってこなかった。
話は尽きず「夏にはいらっしゃいよ。寺に泊めてあげるわよ」といな子さんは言った。
その後、澤田章子さんが、二〇一五年、京都のかもがわ出版が、児童文学者和田登の「石の鐘の物語ーいね子の伝言」を貸してくれたので、私はこの「石の鐘」にまつわる物語の全貌を知った。知れば知るほど、悲しい物語が詰まっている。どこにでもあった話、と片付けるわけにはゆかない。
二度と許せない、この石は下ろさない、と五七子師と往時を知る檀家の人たちの決意は固いが、石は黙して語らない。         
                    

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