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高沢英子

Author:高沢英子
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日本民主主義文学界会員。メイ・サートンの会代表。詩誌「鳥」同人。メールマガジンオルタ同人。

著書:「アムゼルの啼く街」芸立出版「京の路地を歩く」未知谷
 
俳句雑誌「芭蕉伊賀」、メールマガジン「オルタ」「民主文学」「婦民新聞」などに寄稿。

現在、難病の娘の家事手伝いと孫息子の育児支援中。 

東京都大田区在住。


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草の戸随想 247号 9月号          高沢英子 
   再会 ー夏の嬬恋でー
 梅雨が明けて間もなくから、きびしい猛暑が続いている。日本中例外なく暑くなり、東北や北海道でさえ三十度を超える気温だと伝えられて驚いた。
そればかりか、地球の至るところが宇宙からの熱波に包まれ、アメリカ、カリフォルニアの山火事は収まる気配がなく、ポルトガル南部のリゾート地の山火事は、古くからのキリスト教国らしく「黙示録的赤い炎」などという形容詞付きで報じられ、ている。家を失い、命を落とした人も少なくないという。 

娘の家族とわたしは、今年夏休みには、嬬恋に行くことを予定していた。わたしは、できれば以前嬬恋で親しくしていた広瀬尚子さんとも久しぶりに会いたいと思い、あらかじめメールで問い合わせると、七月末から八月初旬を予定しているという返事が届いた。
以前彼女が一人で切り盛りしていた北軽井沢のカフェはもう閉めて、建物は息子さんに譲り、その後彼女と娘さんたちは、昔家族が持っていた北軽井沢の旧大学村の古い別荘に滞在するのがならわしで、尚子さんは今年も最近結婚したご主人と一緒に行き、娘さんと合流する予定、ということだった。
七月末、孫の学校行事や、その他それぞれ抱えるもろもろの雑用を片付けて日程を調整し、月末には数日をあてられることになり、二十七日金曜日、出発は夕刻五時頃、途中で夕食を取ろうということに決めた。
7月三十一日は、火星が地球に大接近するというニュースが伝えられていた。大接近とはいえ、五千七百五十数万キロメートル以上という気の遠くなるほどの距離だが、それでも、平常の六倍位の大きさに輝く、というので、天体望遠鏡も持っていてこの方面には多少マニアの娘の夫は、同行して空気の澄んだ嬬恋の夜空にそれを見る事を楽しみにしていたが、思いもよらぬ台風襲来の知らせと、突発的に舞い込んだ仕事が重なり断念した。
 広瀬尚子さんは二年前、ピースボートで旅行中に知り合った九州の男性と結婚し、相手の方の家が門司なので、そこに移り住んだ。北軽のカフェを閉めてから暫らく東京にも住んでいられたが、なかなか会う機会がないままに、遠い処に行ってしまわれたのである。
嬬恋の家についた翌朝、早速彼女が滞在している別荘を訪ねて行った。ほぼ七年ぶりの再会だが、既に八〇歳を超えた彼女は、あいかわらず、びっくりするほど若々しい。はじめてお会いするご主人は八歳年下ということだが、やはり年齢を感じさせない元気さで、いかにも九州男児らしい明るく豪放な方だった。この日合流するはずだった彼女の二人のお嬢さんは、予期していなかった家庭の都合や、台風による欠航続きで足止めされたため来ておられず、ひっそりした居間で話が弾んだ。
以前もこの欄で触れたが、新婚の夫婦お二人で始めた日本古典の読書は、その後もずっと続けておられるという。
今読んでいるのは、彼女のお嬢さんの御主人である作家池澤夏樹さんから、結婚祝いに贈られた池澤さん個人編集の日本文学全集 第九巻「平家物語」。全巻現代語訳で、訳者は数々の受賞歴で多彩な顔を持つ才人古川 日出男氏だ。
そろそろ後半 十一の巻、壇ノ浦の戦のくだりにさしかかったところで、「実に面白くて、奈良が舞台のところなどこれまで知らずに驚いたことがいっぱいあったけれど、壇ノ浦の戦は住んでいるところが舞台なのよ」と顔を輝かせる。話は尽きなかった。新婚のお二人は互いに気がよく合うと楽しそうに話された。
理解ある御主人のもとでカフェ時代から始めていられたさまざまな自然運動のワークショップや講演会、とくに力を入れていられたスコットランド、フィンドフォーンの奇跡の植物ワールドの紹介と啓蒙運動の一端ともなるツアー計画など、一貫して九州でも粘り強く続けていられると聞き、その実行力と信念には頭が下がるばかりだ。
東京に帰ってきて、わたしは図書館で尚子さんご夫婦が読んでいられる九百頁近い日本文学全集の「平家物語」を借りてきた。そして「平家物語」が大変な書物であることをあらためて実感した。訳者の古川氏は、前書きで、正確な著者不明のこの本は、複雑な成り立ちで多くの語り手の手で書き加えられ、異本も多い。それだけに内容に厚みがあり豊饒で、ある意味無節操。だからこそ「わたしは全身全霊でこの物語を訳した。」と述懐している。
でもつづけておたしはかつて畏友杉本秀太郎が、やはり「平家物語」にとりつかれて書いた本を持っている。京都の旧家生まれのかれは、好んで散歩したが、そのころ、来る日も来る日も毎日ポケットに平家物語を入れて歩き回った、と聞いたことがある。かれの「平家物語」は現代語訳でなく、いわば読みながらの感懐を、あらん限りの博捜ぶりを加えて書いたもので、一九八八年から九六年まで、画家の安野光雅氏の挿絵付きで講談社の月刊誌「本」に発表され、本となって出版された。四百数十ページに及ぶ書物で、大佛次郎賞を受賞している。
「平家を読む。それはいつでも物の気配に聴き入ることからはじまる。身じろぎしておもむろに動き出すものがある・・・」というかれ独特の文ではじまる七年にも及ぶずしりと重い随想である。
フランス文学専攻で、大学で教鞭をとり、アナトールフランスの「赤い百合」やメーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」などの訳書や、アランの研究書を持つが、詩人でもあり,多くのエッセー集も出し、なかでも「太田垣蓮月尼」に関する著作や「平家物語」は彼畢生の作品であったと思われる。
思えば若いころかれがたびたびくれた手紙は、独特の感性と表現に充
ちた素晴らしいものだった。わたしは自分の才能の乏しさと学識の浅さに絶望し、大いに焦らされたものである。戦後の学制改革で、余儀なく新制に移行させられた金沢の第四高校一年在学の経験を持つが、四高は奇しくも私の夫や、伊賀の友人西村徹さんの出身校でもあった。
これも余談だが、平家の一門で、皮肉にも頼朝助命に大きな役割を果たした平宗清は、平家滅亡のあと柘植に住み、代々福地姓を名乗ったと伝えられ、杉本さんの本にもその言及がある。かれは菊山當年男さんの著書「はせを」もよく読みこんでいた。実は、わたしの母方の曾祖母は福地家の出だが、当時は詳しいことは何も知らず、そんな話はしたことがない。
また、かつての文学仲間の長谷川 佳さんのお嬢さんは、東大紛争時代に学生同士で知り合った国文学専攻の大学院生近藤氏と結婚。かれは今はすたれかかっている「平曲」という平家物語語りの分野の研究者で、演奏もその道の師について学ばれ、「平曲」保存に力を入れておられると聞いていた。私は長谷川さんに誘われ、一度その女婿の近藤氏が主宰する演奏会で日本でも数少ないという師匠の「平曲」を聞いたことがある。巷間伝えられる平家琵琶とは一味違う地味な謡いぶりであった。徒然草もこれに触れて、東国生まれの盲人生佛(しょうぶつ)という僧が語りはじめたものと書いているとか。わたしはその会で師匠と近藤氏が演じられた平曲のC.Dをいまも持っている。
だが、長谷川 佳さんも、近藤氏も、杉本秀太郎も、もう世にない。まさに「諸行無常」。杉本さんにはそれしか言えないのか、と笑われそうな感懐を漏らしてしまう。ならば「そのとき微かな胸騒ぎが絶えないのは持怪(もっけ)の幸い」とでもいおうか。しかし実はこれを書いていたときかれは私的には家事多難の大きな重荷を背負っていたことをわたしは別の友人から聞いていた。かれは「平家」とー気永に、ねんごろに、気まぐれに、付き合いながらーどうやらそれを乗り越えたのである。
かれがその「平家物語」の巻末に「名残の空にうっすらとうかんでくる」として引用した太田垣蓮月の一首をしるして、この稿を閉じたいと思う。
ーうつり行はじめも果もしらくものあやしきものは心なりけりー
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わが街かわら版 九月      高沢英子
 ⑫ アリス・マンロー 「小説のように」㈡
 ヨーロッパで意識の深層を深く掘り下げた文学が生まれたあと、アメリカやカナダの広大な新大陸に多くの民族がひしめく多様な社会を、感傷を削ぎ落とした文体でくっきり描き出した女性作家が現われた。一九三一年カナダ生まれのアリス・マンローである。生涯短編小説だけをこつこつ書き続け、二〇一三年ノーベル文學賞を受賞した。
二度の結婚で二人の娘を育てつつ執筆、わが国ではあまり知られていないが、近年翻訳家の小竹由美子氏によって次々訳出され、新潮社から数冊出版された。カナダのチェホフという声もあるとか。
アイルランド移民だった先祖のルーツを辿る作品から、一九六〇年代後半のヒッピーたちの生き様など、その小説世界は多彩である。
言葉は、まず使い手に操られ、受け取る側の心の中でこね回される。会話は常にすっきり進むわけではなく「話せばわかる」というのは、閉鎖社会の独断的な誠意と信念に基づく幻想に過ぎない。多様な世界に生きる人間が、他者の意見を必ずまともに受け入れるとは考えられないのが現実である。作品はそれを実に鮮やかに浮かび上がらせる。心の深淵が、絡み合い錯綜する会話ばかりでなく、ときに正体不明の沈黙も浮遊、思いがけない裂け目や破局に導かれる。深くじんわり心にこたえる結末。「こういう人生もあるわけよ」。という作者の声だけが残る。     
登場人物の行動は多元的で、時間や空間を超え、多くの情景が交錯し、読者はあたかもシンフォニーのように響き合う小説世界に入り込む。やがてほんわりと幕が引かれる。人物の風采や外見をさりげない筆致で執拗に細かく書き込むことも忘れない。作品のひとつに「小説のように」というタイトルをつけているが、それこそ彼女の描く世界そのものかもしれない。三十頁で他の作家の一冊分以上のことを書くと言われるのも頷ける。
引退を表明しつつも二〇〇九年ソーニャ・コワレフスカヤの死の数日前の日々を描いた「あまりに幸せ」を発表。因みに世界最初の大学教授と言われたこの薄命の女性数学者は、かつて野上弥生子の憧れの女性のひとりであり、伝記の翻訳もしている、というのも興味深い。

石の鐘

草の戸随想 246号 8月号         高沢英子
   「石の鐘」

六月初め東京都美術館で、日本リアリズム写真集団主催の恒例の「視点展」が開かれた。この展覧会は、これまですでに四十六回を数え、今年度は、全国から自信作が三千点余寄せられたと聞いた。  
 力作揃いのなかから百五十数名の写真家の作品七百点余のモノクロとカラー写真が選ばれた。
そして今回、私の所属している民主文学会の仲間の平山謙さんの作品も入選したと聞いたので、写真はからきし駄目ながら、観ることは好きなので、娘を誘って見に行った。事前に月刊「民主文学」誌に、「視点展」の感想批評めいたものを書きたいと、申し出て受け入れられていたので、平山さんの写真ばかりでなく、多くの作家の作品を興味深く見せて貰った。
展示作品は、さすがに玄人はだしの腕前で、戦後の日本人の日常ありのままの姿を写し取り、都市や風景を様々な視点でとらえ、おのずから時代や歴史の貴重な証言となっていると感じた。それは世代を超えて、誰にとっても心に沁みるものだった。

平山謙さん入選の作品は「二度と許さない」というタイトルで、古いお寺の鐘楼に、鐘の代わりに吊るされた大石の写真をめぐる三枚だった。
そもそもこの石が鐘楼に吊るされたのは、昭和十七年(一九四二年)の秋というから、七十五年前ということになろう。
 定年後、本格的に勉強した、という平山さんの写真の腕前は相当なもので、日頃から、彼が四季折々の風景や花木、土地の祭りなどを、独特の繊細な眼で捉えて撮影した写真は、息を呑む美しさなので、わたしはいつも見せてもらうたびにつくづく感心し、名前の通りの謙虚な人なので、はにかみながら見せてくれる手製で大事にしている私家版の写真集を、無理にせがんで貰ったりしてきた。
しかし、今回の作品は、視点がこれまでと違って、被写体に強い訴えと願いがこめられた物語が秘められているのが大きな特徴だった。タイトルそのものも「二度と許さない」という気迫のこもったもので、「石の鐘」の持ち主の強い意志を表現している。
 この鐘の代わりの巨大な石を吊るした鐘楼は、現在長野県信濃町の農村地帯の一集落に、昔からあった菩提寺、浄土真宗本願寺派の「称名寺」に在るという。かなり有名なのでご存知の方もあるかもしれないが、三枚の写真のうちメインの一枚は、鐘楼の太いがっしりした木の四本柱を支えている台石のひとつに、ぽつんと腰を掛け、目の前にひろがる村の風景をじっと見ている白髪の老女の後姿を配したものだ。老女の目の前には、今の日本ではもうあまり見られなくなった刈り入れの済んだ田畑が広がり、野に人影はなく、ところどころに、ぽつんぽつんと民家が木の間隠れに見えるだけだ。遠くに田畑を取りまくように連なっている森の樹々がなだらかな丘へとせりあがり、右手はるか彼方に、こんもりと小さな里山がある。昔懐かしい典型的な村の佇まいだ。鐘楼の傍に二抱えはあろうかと思われる大木の幹がぬっと写っている。
鐘楼の下では後姿だった老女が、もう一枚では鐘楼を背に、どこか遠い一点を見つめているような表情が大きく写し取られている。そして、あとの一枚は、仏壇を前にして袈裟をかけ、数珠を握りしめている僧侶姿の先ほどと同じ女性を写したものである。
このひとは、石の鐘を守っているこの「称名寺」の女性住職佐々木五七子(いなこ)さんである。昭和四年、この寺の住職の娘としてこの村に生まれ育ち、親子三代にわたって、住職として寺を守ってきた人である。八十九歳とは思えぬ性根の坐った表情ながら、多年の悲しみと諦念も秘めているかのような静かな眼でもある。
なぜ普通の梵鐘でなく石の鐘なのか。この「石の鐘」が持っている物語をもっと詳しく知りたくなり、町の観光課に電話すると、お寺に直接お話しください、と電話番号を教えられた。
お寺に電話すると、直ぐに住職の佐々木五七子(いなこ)さんが直接出られた。挨拶のあと、単刀直入に
「あなたは幾つ?」と聞かれ、答えると、ほぼ同世代ということで、女同士の話が弾んだ。
貧しい村では、彼女の幼友達の少年たちが何人も、満蒙開拓義勇団という美名のもとに、無計画な侵略政策に加担させられ故郷をあとに海を渡り、二度と戻ってこなかった。戦時中の少女時代に、大事な寺のシンボル、鐘を軍に供出しなければならなかった日の無念な光景を、七〇年経った今も、忘れたことはないという。
「いい音でねえ。遠く飯田の町まで聞こえたのよ」と悔しさをにじませるいな子さんである。
「鉄類の供出」「満蒙開拓義勇団」ーわたしにも似たような思い出がある。当時上野のまちでも、家の前の小溝に渡した鉄の溝蓋、銅や金属の雨どいから、火鉢、鍋窯、鉄瓶などの日用品のたぐい、はては床の間の置物に至るまで、鉄製品のすべてが没収徴収され、大砲や鉄砲の原料にされた。
たまに鉄の溝蓋など残している家があると、子供たちさえ「非国民」呼ばわりして、わざとガンガン音たてて踏み鳴らしたりした信じられないような時代。我が家でも、中土間の銅(アカ)の雨どいから鉄瓶、火箸の類までそっくり供出し、さらに庭池の石の上に置いていた等身大の鉄製の鶴や鷺、今でいうオブジェも抱えて持ってゆかれた。町会(チョウエ)のまえの広場で、即座にカーンカーンと音立てて、細い脚や胴体が叩き割られていたのを見た悲しい思い出がある。
まだ西と東にわかれていなかったころの上野のマンモス小学校の朝は、広い運動場でみんな集まっての朝礼で始まった。五か条の御誓文の前で、校長先生の訓示を整列して聞いたのである。日中戦争がもう始まっていた。満蒙開拓義勇団に入り、勇躍出発する高等科の少年何人かの訣別の挨拶もここで行われた。
空襲が激しくなる中での、竹槍訓練とバケツリレー。今の人はこれを聞いただけで信じられないと笑うが、話しているこちらもアホらしさに唇を噛む。これが現実だった。五七子師の幼馴染だけではなく、大好きだった小学校の担任の優しい女の先生も、満州に渡ったひとたちは二度と戻ってこなかった。
話は尽きず「夏にはいらっしゃいよ。寺に泊めてあげるわよ」といな子さんは言った。
その後、澤田章子さんが、二〇一五年、京都のかもがわ出版が、児童文学者和田登の「石の鐘の物語ーいね子の伝言」を貸してくれたので、私はこの「石の鐘」にまつわる物語の全貌を知った。知れば知るほど、悲しい物語が詰まっている。どこにでもあった話、と片付けるわけにはゆかない。
二度と許せない、この石は下ろさない、と五七子師と往時を知る檀家の人たちの決意は固いが、石は黙して語らない。         
                    

わが街かわら版 ⑪号8月    高沢英子
  わたしの宝箱から 
   ⑪作家松田解子という奇跡
間もなく七十二年目の敗戦記念日が来る。長崎と広島二都市に原爆が落とされ、沖縄の島民を捲き込んだ無惨な死闘とその壊滅。多数の国民が生き地獄を体験した果てに、漸く迎えた国の終戦(実は敗戦)記念日。真の責任者は誰か。誰も本気で追及せず、できない不思議な国。  
かつてオランダの世界的ジャーナリスト、カレル・ウォルフレンが喝破したように、民主主義の育たぬ「シカタガナイ」が合言葉の日本でまた新たなひずみが噴き出し、為政者のやりたい放題は手が付けられない状態だ。
平成四年、百歳を目前に世を去ったプロレタリア作家松田解子は、昭和二十年五月、中野区江古田の空襲で家を焼かれ、すべてを失ったが、二〇一一年、戦争末期から敗戦の秋までの日記風メモが大切に残されていたのを遺族が見つけ、雑誌「民主文学」に掲載された。身重の身で家を失い、飢餓に苦しみつつ、精神の高さを保ち人間らしく生きんと志す文言が随所に記されている。敗戦直後の女児出産の状況描写も生々しい。
一九〇五年秋田の荒川銅鉱山に生まれ、過酷な生い立ちのなか文学に目覚める。中年期、真実に生きる道を模索、苦悶した時期も乗り越え、三児の母として、晩年は病弱だった夫を支え、家族への誠実心は失わなかった。
大作「地底の人々」「おりん口傳」他多くの名作を世に送り、筆力識見ともに一流だった彼女の辞書に「シカタガナイ」という言葉はない。戦後、松川事件では十九名の被告の無実を訴え被告人の文集「真実は壁を透して」(月曜書房)編集、作家宇野浩二、広津和郎らを動かし最終的に全員無罪をかち取る。安保問題、花岡鉱山の中国人労働者の遺骨収集など、その働きは国境を超え、常に働く者の側に立ち、人権を踏みにじり、民主主義の根幹を脅かす案件には先頭に立って後進を励まし、自ら果敢に戦った。作家でなく「足家」と自称。体制側の暴虐と欺瞞を許さぬ渾身の働きで弱者の立場を守ろうとする優しさと真心に溢れていた。  
日本人の身で、サルトルが提唱したアンガージュマン(知識人の社会及び政治参加)の精神を、まさに真摯に貫いた奇跡の女性だったと思う。
草の戸随想 七月245号              高沢英子

    「転ぶ老女」の話
六月に入って初めての土曜日。このところ蒸し暑い日が続いている。今度引っ越したマンションは,高齢者向けなので、玄関には沓脱用の椅子が取り付けられ、浴室やトイレの手すりも万全。床はバリアフリーで、キッチンはガスではなくてITコンロ、床暖房まで抜かりなく整っているのに、空調設備だけがついていない。
西行や鴨長明、吉田兼好の時代とまでいかなくても、近世江戸でも、日本人の暮らしはもっと簡素で気軽だったろう。それどころか戦後でも五十年代は、大学生など友人に助けられてリヤカーで引っ越していた。
しかし、今は特別贅沢をしないでも、ひとり暮らしを整えるのにもないかとお金がかかり、手続その他も煩瑣で、ドア一つ、点灯スイッチ一つにも手が込んだ仕掛けなどがあって、操作その他が万事むづかしくややこしい。ゴミ捨てのルールなど覚えなければならないこともわんさかあって年寄りにとっては、あっさり「快適です」というところまで到達して落ち着くまで、時間と手間とが矢鱈かかり疲れ果てた。
ボケ防止などと入居者同士おたがいに慰め合ったりしているけれども、却ってボケるのではないかと心配だ。
先夜も、うっかり、寝る前に電灯のスイッチを切る拍子に外廊下の非常ランプのスイッチも押してしまい、朝の四時に携帯電話と宅電話の両方で叩き起こされた。「どうかされましたか」「え、そちらこそどうしたんですか。こんな時間にさ」「夜遅く申し訳ありません。ご近所の方からランプが点灯しているというお知らせがあったのでお電話しました。御無事ですか」「無事ではありますがね。夜遅くじゃあなくてもう朝でしょ。四時ですよね。ランプをつけてからもう六時間以上たってますよ」と寝ぼけ眼でつっけんどんに応答したりして、あとで娘に「自分が悪いのに文句を言うなんて」と呆れられた。
ともあれ、この暑さは尋常でない。夏が来る前に何とかしなければと思って、近くの秋葉原の電気街に出かけた。隣のシルバーセンタから出ている無料の循環バスに乗ったのはいいが、JR秋葉原駅の出口で、いつもと違う方面に下ろされたので、迷ってしまった。
東京の繁華街は、近年ますます街並みが複雑になり、しかもいつ行っても人でごった返している。人口が増え続け、外国の観光客やビジネスの人も多いうえにもともと、あらゆる地方からあらゆる事情を抱えて集まっている都市だから、服装もメイクも男女を問わずじつに多様である。
かつて堀辰雄が
「東京で銀座などの街角に立っていると、小説のモデルになる人物が、数分で見つかる。他の地方ではこうはいかない」
と言ったというエピソードをたまに思い出すが、今はそれどころではない。
新宿や渋谷、池袋などになると、私鉄、地下鉄、JR 何本もの路線が輻輳し、からみあい、地下道などに迷い込むと延々と歩く羽目になる。長年東京に暮らしている人でもわけがわからないとぼやいている。
さて、秋葉原も電気街として近年ますます発展し、ビルがひしめき合って入り口も分からない。きょろきょろしているうちに、突然転倒してしまった。歩いていた敷地が同じ模様のタイル貼りで、ほんのわずかな段差にけつまづいてしまったのである。体重が三十数キロくらいしかないせいか、骨折はしなかったが、膝と顔面を強打し、メガネが壊れた。
以前軽い脳梗塞を患っているので、医師の処方による血流の薬を飲んでいるために思いがけず出血がひどかったらしく、何人かの人たちが駆け寄ってきて介抱してくださったうえ、救急車を呼んでくれたので、近くの順天堂病院に送られた。病院の救急医療の医師たちは優しかった。
「おひとり暮らしですか」
「ええ」
「東京にご親族はおられますか」
「いません」
と嘘をついたが、すぐばれて娘が迎えに来た。
レントゲンやMRI の部屋で検査を受けたのち、医師や看護師が顔を覗き込みながら
「ところでお顔にシミがありますが、これは以前からありましたか」と何度か聞く。
「はあもういい年ですから加齢シミは両方の目尻にありました」
「頬骨の薄いのが折れていますが、」と言いながら医師は指を立てて
「これは何本に見えますか」「一本です」
ゆっくり動かしながら
「これはどうですか」「一本です」といったやりとりのあと
「幸い目の筋肉には触っていないようです。」
「副鼻腔に血液がたまっていますが、それは時間がたてば吸収されるでしょうから問題ありません」
という診断で、唇を四針ほど縫ってもらい、膝に絆創膏を張ってもらって帰ってきて鏡を見て驚いた。片頬一面に大きくお岩さん風のあざが広がっていたからである。顔のことで訊かれ、加齢シミと答えたときに医師が不審そうに生返事をしていた理由がはじめて呑み込めた。
自立したつもりが、またまた娘に厄介をかけ、彼女は息子に電話で伝えたらしいが
「お兄ちゃんは『あの人は、もうちょっとはじっとしてられないんかなあ』と怒っていたよ」と言った。
それにしても経過は順調で、数日後抜糸もすみ、お岩さんも薄くなってきた。
たまたま娘の家に行き、コーヒーでも淹れようとキッチンの前でうろうろしていたら、「何をしたいの。言ってくれればあたしがやるからじっとしていたら」と娘が苛々する。孫がすかさず真面目くさって「しょうがないでしょう。おばあちゃんだって生き物なんだから、動くのは」
と言ったので、思わず噴き出してしまった。
娘はなんとなく憮然としている。(この子はこの年でこんな単純さはどうなんだろう。精神年齢低すぎじゃあないかしらん・・・)などとこそこそ深刻に悩んでいるのかもしれない。最近は、何事も昔のようにシンプルではなくなった、とまた思いながらコーヒーを飲んだ。
地元のかわら版に連載しているコラムの締め切りが迫っている。今回の予定は第二次大戦の初め、ロンドン郊外の自宅近くのウーズ川に身を沈め自死したイギリスの女性作家ヴァ―ジニア、ウルフについて書く予定だった。学生時代から注目して来た作家だが、紙面の都合上九〇〇字という制限は一般にあまり知られていない作家だけにきつかった。編集者は外国文学には明るい人だがプロだけにフオローしつつも、わかりやすく書くよう注文は厳しく互いに苦労している。
なんとか書き上げたあと、ふと、たまたま本箱にあったエッセー集を手に取り目次を見ていて「転ぶ老女」というタイトルに目が留まった。よく似た話かもしれないがどうまとめたのかと読み始めた。出だしはとくに変わった話でもなかったが読み進むうちに意外などんでん返しがあり、作り話にしてもよくできている。読まれた方もおられるかも知れない。著者は二年前に急死した女優十勝花子さんだった。
内容をかいつまんで紹介すると、ある日神宮球場前の人通りの多い場所で、たまたま目の前で転倒した老女を甲斐甲斐しく介抱して感謝された著者は、一週間後、同じ場所でまた同じ老女が転び、通行人に手厚く介抱されるのを目撃、追跡調査の結果、老女は毎週同じ場所で転んでは通行人に手厚く介抱してもらい、礼を云ってとぼとぼ去っていた、というエピソードである。都市の寂寥と言おうか、老いてこんなかたちでひとの心によりすがろうとする工夫は笑い事では済まされない切なさだ。田舎で一人住まいをする年寄りの寂しさとは全く別のかたちの都市の孤独といおうか。老いてこんなドラマを演じて、孤愁の心を慰めようとするとは。人間にかぎらず、命ある限り、何かを思い、なにか演じずにいられないかもしれないが、つくづく生きものとは切ないものだと思った。



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